”辻元佳史の世界”からあなたは帰れなくなるかもしれません。

「ナヴァロンの秋」あとがき

 いろいろな人の詩を読ませていただくし、私も浅学なりに、詩の歴史というようなものも辿っては見たが、要するに私は詩というジャンルそのものを理解できていない人間なのではないか、という疑義を持ちつつ、自我流の「詩」を発表しているだけの馬鹿者なのではないか、と思うことが多い。
 どれもこれも名作とは自分でも思っていないのだが、そして私は、書く横から自分の作品にどんどん関心がなくなるタイプなのだが(だから好きな自分の作品なんて一つもない。あえていって、全部が嫌いである)恐らく詩の世界で私ほど、誰の影響も受けず、流行も相手にせず、ただひたすら自分流の詩を生産している輩もあるまいと自負する。
 私の詩について。自分で特徴を述べてみれば、@隠喩をほぼ用いないで、比喩があるとするなら作品全体、文脈全体がなにかの比喩であることが多い。だから私の詩の発話する「私」とか「僕」は常に作者とは無縁である。私はその意味では純然たるテクスト信仰者である。よき人生の結果としてよき詩を得られるとは信じないAパロディーを多用するが、あえて説明はしないのでそれが何かの援用であると分からない人には分からないことを気にしないBリズム感覚は日本の詩人に多いものとは明らかに違うが、ロックンロールの「歌詞」の感覚ではない(私の詩はこのままでは歌詞にならないことは、私が一番知っている)。あえていうとフラットなヘヴィ・メタルなどで使われる「タッタカ・タッタカ」というルート音の刻みの乗りが根底にある。しかも連の最後でシンコペーションするリズムパターンが、なぜか私の詩にはある。C学術用語や時事用語、軍事用語など詩的といえない語彙を強引に使用することで、テーマを際立たせるのではなくて逆にテーマの不可能性を示す癖がある。つまり書きながら自己批評せずにはいられないD描写の途中で故意に錯文することで、発話する主体も位置も時間空間も無視することが多い。詩でなければできない手法、というものを考えると、このようなメタな話法は私には必然だE根底の気分は「苛立ち」と「淋しさ」、キーワードは存在論的な絶対不可能性であることが多いFリフレインや擬音語を割に多用する。
 ここまで書いてみて、またどれもこれもが嘘八百であることに気付いた。馬鹿馬鹿しいのでやめる。詩などついにわからない。しかしいちばん分からないのは自分自身の心事である。
二〇〇五年八月 エーゲ海はナヴァロン島のドイツ軍要塞跡にて 著者

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