”辻元よしふみの世界”からあなたは帰れなくなるかもしれません。

現代詩時評2003秋(詩誌「ガニメデ」より)

詩がつまらないのは詩人の生活が凡庸だからだって

最近、一度は夢中になって読んだものの、ここ何年かは、書棚の奥まったところに隠れていたような本を紐解いております。
「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で駆けていた。途中の小駅は石のように黙殺された」という、出だしが有名な割には中身を読まれていないだろう、横光利一の「頭ならびに腹」も、その選集が出てきて改めて読まれたし、小林秀雄の「様々なる意匠」その他初期の文芸批評、特に「純文学はつまらない、というのは通俗小説の手法を取り入れれば何とかなる、などという甘いものではない。今の純文学がつまらないのは現代の生活が貧しいからである」という喝破は、そのまま二〇〇三年の文芸批評、そして現代詩批評として通用することを再認識しました。
「現代詩はつまらない、というのは通俗的な相田○つ○のコピーや金子み○○の童謡などを参考にしても、何とかなるというほど甘いものじゃない。今の現代詩がつまらないのは現代詩人の生活が凡庸だからです」なんて、ああその通りです、その通りです小林先生。
が、とりわけて、桑原武夫の「第二芸術」を読んで、爽快になりました。戦後の時期しか書けなかった論文、と解説にあるけど、桑原が戦後すぐに問題としたことは今でも、我が国の文化事情に残っているんじゃないですか。
 普遍性の無い言語で暗号化して、秘密結社内だけの論理で楽しむのが日本の芸事の世界であると桑原はいう。というか、政治家の言葉でも若者言葉でも、日本人の言語はそういうところに落ち込むわけです、なんだか。軍隊で兵語を教え込むまで共通語はなかった国柄です。いまだ近代国家じゃないのかもしれない。そして芸術と言うのは、誰にでも出来るような、簡単なものであってはならない、とのことです。実に同感で、師匠について何年で名取、何年で免許皆伝で師範代、という雰囲気、これつまり、長年投資して、年功序列であがっていけるのは芸術じゃなくて芸事だ、と。日本の詩はいかがか。
 で、時評なんだから、最近、手にした詩集をご紹介していきますけど、はっきり言って私は悪口は書きません(笑)。「石のように黙殺」することはあるかも。といって、なにもかも網羅的にご紹介することもできません。ということは、要するに辻元個人が単にここしばらく読んで、気に入ったものを羅列するだけのこと。小林秀雄の時評は作家の生殺与奪すら左右したけど、辻元などにそんな権威はございませんので、適当にお読みください。しかつめらしい批評などできませんので。でもこれらの詩人は、みんな凡庸な生活してないのか。だってすごい詩集多いよ。
 なにはともあれ挙げておくと、野村喜和夫の「ニューインスピレーション」(一月三十一日刊、書肆山田)ですね。「ららら ひとの穂 飛ぶよ」(光る紐)とか「水にむかって叫ぶ 私たちをかまうな、私たちにかまうな。」(水の日)とか、「ぼくが小説を書くとすれば、第九章告別、第九章告別、」(第九章告別)とか、もうとても妙なとこから言葉を持ち出してきて置いてしまう。こりゃもう大変な芸で、当代、余人は真似しがたし。詩なんてインスピレーションで書いて欲しい、その通り、まったくその通りであります。
 そして城戸朱理「地球創生説」(六月三十日刊、思潮社)。「少年は空に向かっていき 途中の断崖から放尿する」(胸騒ぎの空)ですもの。ジョワーッ。まじりっけの無い気持ちよさそうなオシッコのじょぼじょぼ泡立つ音が聞こえてきますな。神話だ、ファンタジーだ、あんばるばりあ! もうすごい一冊。
 山田隆昭「座敷牢」(八月二十五日刊、思潮社)も、取り扱いに困ってしまう詩集で(笑)「座敷郎 という名の彼は畳から生まれた」(畳)なんてどこから出てくる発想やら。「床柱に挟まれた空間にも 屍体が詰まっているのだろうか」(床の間)などと、これはちょっと坂口安吾のパロディー入れてるんですけど、不気味なお話をどんどん語ってくれます。物語がある詩集は貴重。
 暮尾淳「雨言葉」(五月三十日刊、思潮社)も、いつもそうなんですがこの詩人の詩語はとんでもないことを繰り出します。「頭のなかで パリリペリリパリン 何かが割れて剥がれる音がした。脳内剥落は始まっている もう恐れるものはない」(剥落)だって。はい、もう恐れません暮尾さん。
 広瀬大志「髑髏譜」(八月三十日刊、思潮社)これ好きだなあ。「星座をよく見てごらん。吊ってあるから。おれがサイコロをふってやる。」(裏切りのジャック)かーッ。かっこいいです、痺れるかも。「悪い星に生まれてさ…誰かが悪いのさ」な気分。ギターのクールなの聴きてえッ! ほかにも「血まみれ砦」とか、最高です。読んでみれば分かる。
 神尾和寿「七福神通り―歴史上の人物」(六月三十日、思潮社)は驚かされた一冊であります。いろいろな史上の有名人が短い詩になって登場し、「はい、終わり」てなもんでどんどんぶつ切り、尻切れトンボを平気で食わせてでーい、と投げ捨ててしまうこれは非常に面白い企画の勝利。「ボンドは不死身である 大嵐の海に飲み込まれた夜も ロシアのスパイにメッタ刺しにされた夜も 次の日には(中略)諜報活動にとり かかってはさっそく 地雷を踏んで木っ端微塵に なるものの」(不死身の男)という、ここでこの詩は終わっちゃうの。いいでしょ、これ。
 小松弘愛「銃剣は茄子の支えになって」(花神社、十月十日刊)は読ませます、本当に。原爆実験に絶望したアインシュタインが生まれ変わって竿竹屋になり、「サオーダケー」と呼び歩くけど誰も買わない、という「アインシュタインの声」など、こういう内容は詩じゃないと書けません、おそらく。
 鈴木比佐雄「日の跡」(八月十五日刊、本多企画)の「地を這うニガイチゴ」のひりひり味、長津功三良「影たちの葬列」(八月六日刊、幻棲社)のよけいな小細工無しの反原爆詩の凄み、神尾達夫「棺桶が空をとぶ」(四月十日刊、青樹社)のびっくりさせられるタイトルと誠実な作品、朝倉宏哉「獅子座流星群」(五月二十日刊、土曜美術社)の「トラジャの樹」の味わいなどなど。
 あと、石川逸子、木島始、甲田四郎、佐川亜紀らによる「反戦アンデパンダン詩集」(七月十五日、創風社)は本当に労作。今になるとちょっとピントはずれな作品もあるけど戦争と同時進行の急ごしらえ、そこはもう致し方なし。ただ思うに、大量破壊兵器もフセインも出てこない今こそ、本気で物申したいなら申すべきじゃないでしょうか。これで終わりにするのじゃなくて。欧米人もイスラムも戦争は執念深く百年単位でやるんです。
 あと、思潮社から出た「寺門仁作品集」。改めて「遊女」シリーズは実に最高です。詩人去って作品残る。これは大事にしたいです。


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