”辻元よしふみの世界”からあなたは帰れなくなるかもしれません。

辻元ライヴ5・3p

昔はそんなに良かったですか

ええと……、そうそう、先日なんですが、深夜の3時ごろにNHKつけたんですね、そしたらえらい古臭い音だけど滅法いい感じのギターに端正なリズム隊、そこへ持ってきてティナ・ターナーみたいな超ミニスカ履いた、かなり年取った女性が、ほとんど潰れかけた声で唸っている……な、なんじゃこりゃあああ。古い、とにかく音が古いんだけど迫力があってちょっと見てしまった。見てしまって気付いた。そいつらはシーナ&ロケッツなんだなあ。つうことで、かなり無理がある服装の、かなり年取ったその女性はシーナだったんだなあ。もうすっかり喉潰れちゃってた、痛々しかったわな。でも引っ張る力はさすがにすごい。そのへんは最近のバンドにはないもの。それは間違いなく感じた。
 それでよくねえ、昔は良かった、と。で、最近のヤツらが駄目、と。実はこういう言い方は楽だし。なんによらず、音楽でも文学でも、漫画やアニメの世界でも、七〇年代の作品は良かった、とか六〇年代は良かったとか、さらに戦前が良かった、明治時代が良かった……。
しかし、私は思うんだけど、音楽ひとつとっても、昔の素朴なフレーズを出すバンドは確かに味があるんだし、魅力的だけど、それが二〇〇三年とか〇四年にそのままの能力でタイムスリップして登場しても、通用するかどうか分かるまい? だってそのへんで高校生がやってるバンドのほうが百倍ぐらい難しいこと演ってるわけだから。簡単に昔のバンドは良かった、それに引き換え最近の若いのは、ともっていくのは実は好かない。昔のバンドの音を知らない、不勉強な若いのも好かないけど。
漫画もそう。実際、今の漫画はつまらない、と言いつつ、昔の漫画と最近のものとをちゃんと並べておいて比較すれば、画力とか画材の恐ろしいまでの進歩は覆うべくもない。昔、うまく見えた漫画家がたいした事ないという事実に、往々にして気付くわけよ。だから、昔の漫画家は凄かった、今のやつは、という一般論で括る人は好かない。誰と誰を比較するか明示しないで、「昔の人」と「今の人」を一般論で比較しても何もいったことにならない。しかし、最新流行の漫画ばかり追いかけて受け狙いするヤツは確かに目障りだ。たとえば手塚治虫みたいな人の作品の中でも上質のものは、今見てもあの構想力とか構図の取り方、見せ方とか、尋常じゃない。
 文学はどうよ? 芥川龍之介が今、生まれ変わって作家になれるかどうか。もっとも彼は今なら漫画家かアニメの方に行くかも。いや、確かに芥川なら今でも通用するでしょうけど(さすがに尋常じゃないわね、この人の書くもの)、その仲間だった久米正雄とか、松岡譲とかはどうでしょうか? 一緒に新思潮を起こして、漱石門下に入った連中です。その後、みんな流行作家になって、同じく仲間だった菊池寛のおかげで、生きている間はなかなか文壇の大家で通った。でも死後は名前すら忘れられかけている。書店に行ってももう、著作が手に入らないので読みたくても読めない。久米正雄の初期の作品など、今読むとほとんど作文である。しかし漱石はそれを褒めている。結構、賞賛しております。ただ、それは要するに芥川ばかりを褒めすぎるとほかの者が腐るので、気を使って久米も褒めたような感じなんです。今、久米正雄は遺憾ながらデビューできないと思う。昔の作家はすごかった、しかし今の作家は駄目だ、とこれも一般論で言っても仕方がない。せいぜいある時代までは商売になりえたが、最近はなりえない、という程度の議論にしかならず、それは作家の責任ばかりにはできない。
 それで……、詩はどうですか。ここしばらく出ている詩集を読むと、やはりどなたの新作でも、レベルと言うことではきわめて高いと思わざるを得ない。客観的に見れば。難なく書いていることが、国語の教科書なんかに載っている昔の書き手を通過しているだけに、それなりのハードルをクリアしているように思われる。どなたでも戦前にタイムトリップすれば、まず天才詩人扱いされること必定である。
 要するに、どの世界でも「それが当たり前」という水準が上がると、それまでの先端、前衛もいっせいに陳腐化する。それが避けられないですね。
 なぜに若い世代ほど、腐るか。
それはですね、後の時代になっても残っているもの、通用するものは、そういう普遍的な仕事を残した人というのは、これは大変な天才なんですね。そうじゃない人は徐々に忘れられていく。よっぽどの人じゃない限り、死後十年もすれば忘却されるのです。それでも、忘れ去られない凄い人、それは手塚治虫とか芥川龍之介クラスの百年に一人レベルの仕事なんです。詩人で言えばランボーとか朔太郎なんかはやっぱりそうなんでしょう。流行の陳腐化、技術の革新、それぞれの分野の常識的水準の上昇などを乗り越えて、何年たっても通用するほどの名声を打ち立てる人物の仕事、というのはそうそうないわけです。なかには話題性で行く人もあります。おおむね、早死にした人、自殺した人は美化されて名が残る傾向にある。過大評価されている人があり、過小評価されて埋もれすぎている人もいる。芸術の世界はそういうもんですよね。死後発見される人も少なくないのだし。
 しかしなんにしても、それぞれの時代の代表的な仕事で後になっても思い出されるのは、それは最高レベルの仕事に決まっている。で、そういうものと、現役の若い世代は比較されるわけでしょう。そりゃフェアじゃないわけです。明治時代にも大正時代にも戦後にも、七〇年代、八〇年代にも、無名で埋もれた作家も詩人も、音楽家も漫画家も無数にいることでしょう。
 要するに、過去の天才を常識水準として競作し、過去の天才ほどの魅力がない、と比較される。これが若いものの仕事の宿命なんであります。本人自身も腐るのですよ。アイドルとする人のように書けない、一生かかっても追いつけない、となる。
しかし後に続くものには強みもある。スポーツで言えば、必ず先人の記録は後輩に破られていく。芸術でも、過去の天才の仕事は次の時代には常識となって、乗り越えられてしまう。客観的に見ればおおむねそうなっている。あるいは先人を否定することもできる。
 一体、私はこの駄文で何を言いたいのか。若い書き手を激励したいのか。それはその通り。しかし。
 実は自分を激励したいのか。そうかもしれませんね。
 自分は百年、二百年に一人の天才なのかもしれないし、生きている間から死後十年ぐらいは残る人なのかもしれないし、生きている間にやめてしまう群小の書き手かもしれないし……が、そんなこと誰知ろう。とにかく腐ってはいけないね。地道に、やろうじゃないですか。
 そこいらへんを、今、詩を書いているすべての書き手に言いたかった、のかも。あと、漫画家志望、作家志望などの卵の人たちみんなにも。
 日本の未来は暗いとしきりに老人たちが言う。くだらない、未来は彼らのモンじゃない。そういうことで行こうじゃないの。ふとそんな気になったのでした。
 てことで、ちょっと今回の詩を。

尻の拭き方をいつ覚えたろう

子供のころのアルバムに目を通して
水のみ場の横に腰掛けるぼくに出会う
おやおや まだなにもしていない
幸せなぼくに出会う

日がな一日 窒息しそうにネクタイがきつい
じっと待つほど 窒息しそうに毎日がきつい
こんなはずだったのか 縛り縄が締まっていくし
ぜえぜえはあはあ この地球しか知らないし

あれもこれもつかもうと
手を大きく広げすぎて怒られた子供
あれはぼくだ そういえば 尻の拭き方も知らない 
幸せな あれはぼくだ。


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