”辻元よしふみの世界”からあなたは帰れなくなるかもしれません。

「メール語時代」の詩だもの

 「詩の軽さ、重さ」について考えを書いてくれ、とのご依頼ですが、ああ、難しいお話ですね。というか、最近、別の詩誌から「詩はどこに届くのか」といったテーマで書いてくれ、と言われたりしまして、なんでしょう、詩の世界もかなり根本的に「詩とはなんなんだ」とか、「それで今のご時世に詩はどうあるべきなんだ」とか、見直しをしようという機運にやっとなった、というか。国中が、いや世界中が激動の時代ですからね、いいことです。
 それで、詩の重い軽いというのは、なんなんでしょう。読んだ印象、それとも言葉遣い、あるいはテーマですか。場合によっては詩にこめられたメッセージも入りますか。
 で、私などはデビュー以来、軽い軽い、と言われ続けてきたわけです。私の最初の詩集が一九九二年の『戦争ってヤツ』というもので、そのときにベテラン世代から「歌詞みたいだ」「印象が軽い」といった批評が参りました。
 で、私はそういったありがたい忠告を何一つ取り入れることなくここまで参りましたが(!)、それも最近はそういった感想は全くこなくなった。恐らく、この十年余りの社会の変化と日本語の変化はきわめて激しく、私は少々、先取りしていたんだろうと思います。各詩誌に載っている作品の言葉遣いを十年ぐらい前と今と、比較してみると笑えますよ。九〇年ごろの作品は今より気取りが激しいです。世の中全体もバブリーなら、詩人もバブリーかつゴージャスに言葉を放っていた、という感じでしょうか。みんな年金の利息で詩集出してたし。信じられませんよ今じゃ。
そして恐らくは、九〇年ごろまでだとワープロすらまだ詩人にはろくに普及していない。ちょっと前まで「手書きで書くのとワープロで書くのとでは、作品の内容は変わるだろうか」などと真面目に議論していましたが、今や信じられるでしょうか。そして現在、日本の標準言語は、ほぼメール語で、標準的な詩はラップの歌詞なんです。これがまた大きい変化です。
この間、日本のシステムがどんどんぶっ壊れて何も信用できなくなり続け、今日に至っていますよね。十年前なら高校生が援助交際するのを嘆かわしく思いましたが、今やわが国はほとんどフリーセックス化してますし、たとえば。あるいは官僚は薄給でも優秀だとか、日本の治安は世界一とか、日本の教育水準は世界有数とか、都市銀行はつぶれないとか、関西では地震が起こらないとか、北朝鮮は地上の楽園とか、冷戦が終わって国連中心で世界平和が維持されるからもう防衛力は要らないとか、どれだけたくさんのものに裏切られ、あるいは神話は崩壊して今日に至ったか。
 それで、言葉遣いとかムードということで言えば、ほんの十年前のベテラン詩人方は皆さん自信があったわけですね。自分の詩の言葉に。また自分らの人生経験とか、知識とか、日本語とかに。それで若い者は駄目だなあ、という感じでいろいろ言ってたのだと思う。でも最近は、要するに拠ってたつものがきわめて薄弱になったから、「お前の詩は軽い」と軽々しく言えないわけですよ(実際、他人の詩語を軽い、と断じることのなんと軽々しいこと。その人なりの何かしらがあっての言葉を、表面的な印象でしか捉えられないような者は詩人を廃業すべきじゃないのか)。
 またテーマということで言えば、私は詩にことさらテーマもメッセージも、もちろんあっていいけど、全然そういうベクトルがない実験的な詩もまたいいと思うので、それが重いとか軽いとかいう議論は納得しません。よく、人生経験に寄りかかった詩があるけれど、そしてそこに悲惨な体験や厳しい経験が描かれれば描かれるほど、批判できなくなるのだけど、しかしそういう詩は決して批判を許さないという意味で、もうジャンル違いという気もします。
 先に私の第一詩集を挙げましたが、この詩集ではかなり戦争、それも太平洋戦争と現在、というかバブル期の日本を対比して書いたんです。当時、私は二十五歳で、戦中派がまだ六十歳前後だったもんだから、批判がこの点でも結構、来たわけです。「どうしてこんな難しいテーマを若い者が取り上げるんだ」とか「あなたは戦争を良く分かっていない」とか、そんな感じね。で、「今のいい時代に生まれた幸福をあなたは理解できないのか」とか(微苦笑)。
 私はね、戦後の日本はそんなに素晴らしくて、今の若い者はそんなに恵まれてるんですかい、といささかの疑義をこめた訳です、確かに。そしたら反発する人がかなりいたんですよ。私は「戦争を語るのはあなた方の特権なのですか。それでは議論にもならないでしょう。そうやって若い者を見下しているから、若い世代はあなた方の声に耳を傾けないんですよ」「今の若者はそんなに幸せだと思うのですか、よく見てください」と反論したものです。やっぱり若かったですね(苦笑)。以後、私は詩で戦争を取り上げるのはやめました、少なくとも直接的には。いちいち面倒くさいので。しかし、戦争中には零戦も戦艦大和も一般国民にはオープンになっていなかったのに、自分はそれを良く知っていた、と言い張る終戦時十代の人とか、その時代に生きていたから何でも知っている、という態度の人はまことにうさんくさいです。そして他人の言葉尻を捉えて難癖をつける。嫌ですねえ。私はバブル全盛期に社会に出ましたが、今の小学生にバブル経済とはなんだったか、説明することは出来ませんしその資格もありません。個人の経験なんてそんなもんでしょう。
 それから十年。もう私はそういうことで何かを説明する必要はないと思う。そうそう、私は少しだけ先に行ってたんですね、ちょっとばかり未来にね。
 詩の軽み、というかライトバースな感覚。それはもう俳諧の世界などでは芭蕉の存命中から議論されてきたこと。ただ言えるのは、詩には、どれほど重厚なテーマであろうと、長大な大作であろうと、なにがしかの軽みはやはり必要だろう、と思います。別に笑いを取るとか、向日性などといってことさら明るい話題にするとか、無理に若者言葉や言文一緒体にするとかじゃなくて、発想に突き抜けたものが必要だ、とこれは最低限、思います。つまりそれが詩の詩たるゆえんというか、小説じゃ書けない部分というか。思い切り無理な飛躍があって欲しいですね、詩には。そういうのを軽いとかふざけてるとか言う人もあるでしょうが、私はそんなに重々しく人生語るなら小説やルポルタージュに、テレビや新聞を読んで政権への憤りを感じるなら日記か新聞の投書欄に投稿すべきだと思います。
 私は、なにかしら哲学の匂いがある詩が好きです。人生の描写というよりは。ああ、哲学理論じゃないですよ、そうじゃなくてある「認識」とか「明察」、あるいは「意識の変容」を促されるもの。それも軽々と重いこと、致命的なことを言ってのけるようなもの。哲学的な方法を引用しないで、でも詩であり哲学になっているようなのが。私の理想は今、そういう感じの詩ですね。軽重い詩、と言いますか。とても具体的で日常感覚的で口語的なのだけど、とんでもないことを言ってのけている、言い当てている。少なくとも私はそういう詩を理想として書いています(うまくいってないですけど)。詩で世界平和が実現する、とは思いません。ただ、そういうテーマでも自分の身体についた表現で、今この時代のここにあるという事態をうまく表現する詩。一見、軽いけど奥に罠があって、それに気づいた人にだけは深い。そういう詩が書きたいということです、今現在の考えとしては。

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