”辻元よしふみの世界”からあなたは帰れなくなるかもしれません。

ニホンゴを話す人々の経済集団にすぎない

前にこのコーナーのために書いたのが二月のことだった。それから今、梅雨入り宣言を聞いた日にこれを書いているのだけれど、この間にあったことといえば、ニッポン放送とライブドアのM&A話に、中国の反日暴動、それから福知山線の事故、ということになるか。あと、サッカーW杯ドイツ大会に出場決定、なんてこともあったか。
 
ニッポン放送問題について。最初、よく分からないうちはホリエモンは若き改革者のように見えた。しかし話を聞くうちに、昔からよくいる成り上がり志向の成金主義者に過ぎないことが分かってきてしまった。彼があのまま五十、六十、七十になるまで実業家であり続ければ、さぞかしワンマン老害経営者と呼ばれることになるだろう。
ネットとメディアの融合、などというのも実は世界的には古い発想で、せいぜい五、六年前の言い方だ。アメリカなどでは、ネットとその他メディアの分離が進行している。いくら企業体として融合してみても、それで儲かるビジネスモデルをついぞ誰も思いつかないのが最大原因だ。ホリエモンのいうことなど新しくない、むしろ陳腐で古臭いのである。
ネットなんて基本的に「無料コンテンツ」の屑篭である。そこで有料のコンテンツを混ぜ込んで儲けるのは事実上、無理である。無料コンテンツの世界では、ネット上のコンテンツとして詩なんていちばん競争力がない。邪魔なだけである。残念なことに「プロの詩人」というのは実在しない以上、熟練者もネットオンリーの中学生が書いたようなポエムも、コンテンツとしては大差はない。およそ詩人は、ホリエモンなど応援しなかっただろうな、と私は思うが。それとも応援した人もいるのか? そういう人は自分の立場を理解していない。人気のないものは存在しなくていい、というのがホリエモンの主義である。つまり、あなたの書く詩は内容にかかわらず無用なのだ、ということである。それでも応援する人はマゾなのだろう。

 反日暴動について。随分、前になるが、それはもう七、八年前でそろそろ中国が上昇気流に乗ったことがはっきりしてきたころのことだが、会社に知らない女性から電話がかかってきて「中国の経済特区に投資しませんか」という内容だった。私は「あの国は確かに発展してきているが、政治的に信用できない。しょせん独裁国家であり、ちょっとしたことですぐにがらがらひっくり返るような国は信用できないから投資しない」と言ってやった。相手は結構、憮然として「まあ、それはいろいろな考え方がありますから」などと言って、切った。「間に合っているので結構です」という人は多かろうが、「中国はしょせん、共産党独裁国家であり、信用できない」という断り方をした人はあまりいなかったのかもしれない。ひょっとしたら、相手は日本語の上手い中国の人であったのかもしれない。
 今になってみて、自分の判断は正しかったと思うのである。
 米ニューズウィークが「これは後になって日中関係の重大な分岐点だった、といわれるかもしれない」と報じて「日本の国連安保理常任理事国入りも難しくなっただろう」と論評したそうであるけれど、その通りであろうと思う。日本の選択肢というのは急激に減ってきているのであろう。小泉内閣は、日本がアメリカの属領となる道を切り開いた政権であった、ということであろうと思う。そういう方向を意図的に選んでいるのだと思う。
 ニホンは今や、ニホンゴを話す人々の経済集団にすぎない。
 誰かがとってつけたように靖国神社に行こうが、妙な教科書ができようが、まるで影響がないのをニホンジン自身が一番よく分かっている。そもそも日本の子供は勉強しないから教科書などあってもなくてもどうでもいいのである。よく右傾化、といって心配するが戦前回帰型の右傾化の心配は実際には取り越し苦労だろう。あるとするならアメリカの属領化にすぎない。このしらけきったポストモダニスムの永遠に続きそうな空しさを、あのような独裁国に理解しろといってもまず……、五十年は早いだろう。成長が頭打ちになるぐらいになって、ほしい物がなくなって、生涯無職でも安穏としていられるほどの無為につつまれたこういう境地にならない限り、彼らと話し合っても意味がないかもしれない。

 この時期、詩集の発行は少ない。詩の世界での動きもおおむね鈍い。イベントなども不思議なもので芸術の秋にあわせて、という発想になりやすい。そんなわけで、この時期に私はあまりたくさんの詩集を読みはしなかった。今回特に挙げるとするならなんといっても野村喜和夫『街の衣のいちまい下の虹は蛇だ』(河出書房新社)である。この詩人の作品には街を彷徨って、まるで酔っ払いの書き付けたメモのようにとめどなく連想を書き進める一連の作風があるけれども、これは全編もってそういう趣向である。東京という都市の卑猥さは、意外に化粧が薄く一枚はがれるとその下にはろくなものがない、そして周期的に崩壊し丸裸になる危うさそのものが一種の魅力といえば魅力であったりする。そんなことをあれこれ作者と一緒に狂おしく連想しながら街を彷徨って手に入るニホンゴの奇怪さを味わってみることを勧める。それから渋田耕一『欠けた円周』(ふらんす堂)に非常に注目した。作者はがんの宣告を受けて七度にわたる入退院を重ねる中でこの詩集を完成させたが、いわゆる「闘病もの」ではすまない、つまり闘病を描いているのではなく、病気という条件下で現れたヴィジョンを執拗に描いている。いかに作者が強靭な知性と精神力を持っているかがうかがい知れる。いわゆる「癒し」をどこかに求めるのでもなく自分を憐れむでもなく読み手に共感による救いを求めるのでもなく(私はそういうタイプのものは苦手だ)、徹頭徹尾、その条件下で手にした言葉というものを記録し続ける。「あわよくばもう四、五年生き延びて、次の詩集を」とおっしゃる。敬服に価するのである。あと森田進・佐川亜紀編『在日コリアン詩選集一九一六―二〇〇四』(土曜美術社出版販売)は労作だが、金美恵やぱくきょんみの作品は、とにかく詩として面白いし上手いなあ、と率直に思った。そういう前提であるから出てきた作品でもあろうが、そういう前提でなくとも詩としてすごい、ということである。しかし在日コリアンであろうとなかろうと、ニホンおよびニホンゴというものについて懐疑がまったくないような詩人ははじめからいない方がよいと思う。そういう意味では日本の詩人はすべからく在日ニホンジンたるべきである、とも思った。

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