”辻元よしふみの世界”からあなたは帰れなくなるかもしれません。

詩は私を盛り込むには小さすぎる

 なんというのか、近頃は甚だ鬱っぽい。どうもこうもない、なんだか面白くないのである。そして、こういう気分の時に「詩」などという形式が、なにか慰藉なり気晴らしなりを与えてくれるのか、と思えば、まるでそういうことがない。
 はっきり言おう、詩という形式はどこらへんまで有効なのか、そのへんを近頃の私はかなり気に病んでいる。
 私にとって詩とか文学というのは、人生の大事ではない。だが、たとえばランボーはそういって詩を捨てた。二葉亭四迷もそうだった。夏目漱石は教員よりは文学がやりたいとは言ったが、最後まで文学は分からない、と言い続け文学博士号を断り、胃を悪くするほど悩んで、それが結局、命取りとなった。
 私はこうした大家たちに自分をなぞらえる気もないが、自分には文学など到底わからないし、また人生の最大の重要事とも見なす気がしない。また出来ない。
 そういえば、である。私が前に出した詩集は、いろいろな事情があって横書きにした。主たる「事情」の一つが「プロデューサーの存在」である。音楽の世界ではミュージシャンなり歌手なりと、プロデューサーが共同でCDを作るわけだが、そういう関係を詩の世界に持ち込んでみるとどうなるか、ということをテーマにした実験を今作でやったのだった。漫画家や小説家はネタだしから発表のタイミング、題名の付け方まで編集者と意見を戦わせて決める。ミュージシャンも録音の仕方から、収録する曲をどれにするかまで、プロデューサーと詳細に決めていく。
 詩については、自分がプロデューサーであり、スポンサーであり、作家であり、おまけに売れ残りの本の在庫管理者である。これで冷静に自分の作品をどう他人様に読ませるか、という判断などつくもんだろうか。
 私はつねづね、自分の詩の良い点も悪い点も全く分からないので、自分で自分の詩集を編むなどということは苦痛だった。自分の近作を並べてみても、みんなくだらないものにしか思えない。これは本当にそう思うのだ。意味のない言葉の羅列にしか思えない。
 そういうこともあって、私はその新詩集には「プロデューサー」を起用した。造本、詩の選択から並び順、さらにそれぞれの詩につける解説というかエッセイというか、それだけではなく、「こういう要素が不足だから、こういう詩を書いてくれ」(具体的にはラブソングのような作品を書いてくれ、という注文だった)といったオーダーを受けて、私はその言われるとおりに作品を提供し、詩集を作ってもらった。全体のコンセプト、題名まで、すべてがそのプロデューサーの考えと私の意見をぶつけて、出てきた答えである。
 その中で、大量の作品を無理なく掲載するにはどうしたらよいか、それならば、今回は全体を一種のテキストブック形式にしているので、いっそ全編を横組みにしたらどうだろうか、とプロデューサー氏が言い出した。私は、自分の作風も横組みで違和感があるとは思わないので、いいでしょう、と諒解した。
 それで、できあがってきた詩集を見て、私は大いに満足した。要するに内容とその組み方とか、全体の作品の見せ方はなかなか、はまっている、と思ったからだ。
 で、大方の人はそういう理解をしてくれたもののようだが、がっかりさせられることに、「横組みは読みたくない」だの「横組みは気に入らない」のという人が、ベテラン世代に少なからずいたことであって、まあそれはそういう意見を持つのもいいだろう、ご丁寧に文句を付けてくる人あり、書評でまで難癖をつけるものあり。
 まあ、そもそもある種、ベテランの神経を意図的に逆なでしよう、と言う意図が私にも、そのプロデューサー氏にもあったことは事実なので、覚悟はしていたのである。が、その中身というのが「横組みだ」とか「カタカナ語が多い」とか、愚にもつかないのはどういうことか。私ははっきり言って、この文章でもますます、一部の人に嫌われようとしている。だが別にそれでかまわない。「謙虚で聞き分けのいい成熟した詩人」。そのなんと反語的な無意味な表現であることか。生老病死の悲しみを書き、病気の動物のことを書き、家族のことを書き、自然のことを書き、戦争の悲惨を書き、それを誰に読ませているのか、一般に詩人は。それが近頃、分からない。
やりたくもないことをやり、付き合いたくもない人に頭を下げ、この手柄をぜひ認めてくださいの、早く昇進させてくださいの、といった糞面白くもない社会人人生を、ベテランの人たちはとっくの昔に卒業されて、今は悠々自適で年金で詩集を出しておられるのだろうが、こちらは違う。
 仕事が忙しいのだ。本当に忙しいのだ。詩どころではない、文学どころじゃないのだ。いい生活をして、いい文学を書いて、人生を充実させようなんて白樺派みたいな暢気なことを言っていられないのだ。いい詩を書こう、精進しよう、などという人はそれはそれでいい。私は違うのだ。詩など、修行して生き方を変えてまで生み出すほどの意味のあるものとは思えない。そんな大したものなのか?
 だからたまに息抜きの道楽の詩ぐらい、好きにさせて貰いたいものである。
 詩の世界でみんなによく思われる、そしてなにがしかの団体の役員となる、それからなにかの詩の賞を貰って、新聞に小さく載る。賞金を貰う。そういうことのために、お行儀よくしていろ、ということなら私はもう、そういう声には従わない。くだらなくてもうやっておれない。第一、自分の金で自費出版して、それをただで読ませてやって、それで言ってくる感想が「横組みでは気に入らない」などという次元の話なら、もうそんな者には読んで貰う必要がない、というだけのことだ。
 内容が気に入らない、というのならいいのである。いくらでも受ける。しかし形式的なことばかり言う者がずいぶんいる。「カタカナが多い」という批判には心底、あきれてものが言えない。これは詩集の論評であろう、それとも新聞に投書しているつもりなのか?
 ある詩のサイトで(などと書くとまた、サイトとはなんのことか、カタカナばかり使うな、などという人がいたりする。もうそういう人は分かってくれなくていいので、私の文章など読まないでいただきたい)、ちょっと私がそこの管理人と話題にしたことがある。つまり、ほんの四、五年前の詩の商業誌など見ても、大まじめに「ワープロで詩を書くと、手書きとは違うのだろうか」などということを論じていた。今、そんなことを議論するものはバカ扱いされるに違いない。だからまもなく、ネット詩人とそれ以外の詩人、などという区分けも無効になってくるだろうし、書式が縦か横か、などということも無用の議論となるだろう、と。
 そうはいったものの、現実にはたかがこれしきの変化にもうついてこれない者がこんなにいるのだから、私のような者はとてもやっていられない、と思うのである。
 そもそもくだらないと思うのは、私はそもそものデビューの頃から、つまり十五年以上前からワープロのユーザーであり、コンピューターに乗り換えたのも四年も前である。すなわち私の作品は常に、そもそもの初めから書く段階では横書きの横組みである。作者である私としては、横で考え、理解しているのである。これを出版の都合上、やむなく縦にしてきたというだけのことで、実際には縦書きの状態こそ、原作者である私には違和感があるということを、この連中は知らないだろう、これが滑稽千万だ。もちろん、この文章も今、本当は横で書いているのである。コンピューターの液晶画面上で、私は縦書きだとちっとも筆が進まない。
 実のところ、もうそんなこともどうでもいいのかもしれない。一体、我々は誰に読ませるつもりで書いているのか、という議論がこのところの詩誌などで盛んになっていて私はそれは非常にいいことだと思ってきたし、また、こういう話題では私のような人間は一家言あると思われているようでもあり、しばしば寄稿してきた。そういうところで私が言ってきたのは、簡単にいってしまえば、仲間内に読ませるつもりで、仲間内に褒められそうなものを書いていても仕方ないじゃないのか、本当のところは詩の本などなんらの流通力も値打ちも魅力もないのだが、それでもそういう志ではダメであって、一応は「この詩集をベストセラーにしてやろう」という志で本を作るべきなのじゃないか、ということだった。少なくとも私はそう言ってきたのであって、そう思わなかった人は誤読しているのである。
 芥川賞に十九、二十歳のお嬢さんたちが決まったときに、私もその作品を読んで、特にその一方の作品の稚拙さに驚いたのだが、しかしこうして貪欲に話題性をねらってきた小説界はうらやましくもあり、立派でもあると思った。小説の世界でも、これまでは「この若い人はもう少し、様子を見ましょう」などと言って、それでせっかく意欲も才能もある若い書き手を腐らせてしまう、なんてことを繰り返していたのだった。あちらはそういうことをやめたのである、要するに。「文学の高み」みたいな信仰めいた話をやめて、才能を循環させ、話題をつくり、読み手を増やし、作家志願者を増やし、業界を再生産していく、という菊池寛本来の着想に戻った、と言ってもいい。そういう意味では評価していいことだったと思う。
 私は近頃、詩の世界も詩の形式も、自分の盛りたいものを盛りきれない、という思いが強い。はっきり言ってがっかりしつつある。
 結局、この程度のものなのか。だったらやはり男子一生の大仕事とは思えない。誰か教えて欲しいものだ。

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