”辻元よしふみの世界”からあなたは帰れなくなるかもしれません。

ひそかに靴を愛する

靴を磨くときは 幾分かの慰謝を得る
なんともささやかだが いったい
どんな詩文も音楽もこれほどに私の心を寛げない

ブナから削り出しのシュー・ツリーを取り出し
モゥブレーかサフィールのワックスを開け
竹へらで微量を掬って塗りつけ
馬毛のブラシでこねるようにたたくように磨きぬく
あるいはそれがドイツ製の靴であるなら無骨なコロニアル
でもよいかもしれない
シリコンクロスで磨き はき古しの下着で磨き
若干の水を落としてさらに光沢が出るまで
よけいなワックスを落としていく
無念無想
それが 禅に通じることを
知らないものは知るまい

さらにまたいくらかの安いブランデーがあれば
これを刷り込み もしこれが黒ではなくて茶色であるならなおさら
ポリッシュを爪先に落として こすりつけ
一層力強く 皮革の表面をなでていく
靴は
コードバンであってもカーフであっても
喜悦して ひひ と笑うのを
門外漢は知るまい

チズル・トゥよりもラウンド・トゥのほうが
私は好きで
ストレートチップもよいがフルブローグも美しい
アメリカ人のようにウィングチップとあえて呼びたければ
それでもよい
メダリオンの奥まで コパの継ぎ目まで
内羽根の場合は紐を解き
ブルーチャーの場合はまた格別に
丹念に磨きぬかねばならない
そうしてこそ
靴は
エデュアルト・マイヤーであろうがエドワード・グリーンであろうが
歓喜の中で くく と身をもたげ
主人の足を守ってやろうとするのを
この趣味のない人は知るまい

それがジョン・ロブであってもJ&Mであっても
トリッカーズの頑丈極まりない城壁みたいなラインであっても
チャーチのラスト73であってもそのほかの木型であっても
流行のクロケット&ジョーンズ
または 思い切ってオーベルシーの特上品
いやいっそ ビスポークの珍品ということでもよい
たまにはごついオールデンでもよかろうし
たまにはトリッペンやビルケンシュトックでリラックス もよい

上野丸福で買おうが神田ミマツで格安で購おうが
日本橋高島屋の特選靴売り場で身銭を切ろうが
総本山の新宿伊勢丹メンズ館で大枚をはたこうがどのような出自でもまたよい

一日が終わりくたくたとなったときには
己が倒れこむ前の最後の気力を絞って
ステインリムーバーで汚れを落としクリームを剥いでから
ミンク油脂をすりこんで愛撫してやる
かくすれば間違いなく
安心してそれは ほう と
小さな声を漏らすのを知らないのならあなたは靴好きではない

一夜を置き 陰干しの後に
また堅いシューツリーを収めてやる
ぴんと背筋を伸ばしてそれは
次の出番はいつですか と向こうから聞いてくる
足を入れればしゅっと空気が抜けて吸い付いてくる
さてこそ ほかの靴と寵を競って
どこへでも行きましょうよ 泥道だろうが汚水だろうが
あえて厭わない 砂利でも石でも
踏破してやりましょう
そういう靴の訴えを取り上げた上でないと
私は一足も歩み出せない近頃なのだが
私ではないあなたは
そんなことは知るまいし
知ってもらわないでもよい。


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