ライブ・ゼロワン報告
「ポエトリー・リーディング・ライブ・ゼロワン」が、二〇〇一年十月二十七日、東京・東池袋の「サンライズ」ホールで開催され、約四十人の観衆の前で出演者が思い思いのリーディングを披露した。出演したのは、潮流詩派の高橋和彦、山口浩子、辻元佳史と、野村喜和夫、平居謙、ヤリタミサコ、大平みどりの七人。
同ライブは、昨年まで同じ会場で開かれていた「世紀末でうたう詩人の会」を発展的に解消したもので、より自由に、なんの意味づけもなく「詩人によるパフォーマンス」を試みてみよう、という趣旨で企画され、タイトルも西暦の末尾をとっただけ、というもの。
当日、午後三時にスタートした朗読会の先頭を切ったのは、ベテランの高橋だった。高橋は「世紀末でうたう詩人の会」当時からの発起人の一人であり、司会進行も務めたが、これまでの「世紀末」ライブでは、ギタリストや三線奏者を伴い、かなり派手なステージを披露していた。しかし今回は、単身で登場。黒いサングラスをかけ、フォークミュージシャンのようないでたちの高橋は、自身で録音したという大船駅前の雑踏のノイズを背景に独特のほろ苦みとペーソスを的確に肉声化していた。あえて惜しいといえば、高橋の作品はそもそもかなり短いものが多いので、ライブでは「もっと聴きたい」という欲求不満を覚えた。ライブ用バージョンというようなものも考えてもいいかもしれない。トップバッターはこういうジョイントの場合、非常に損な役回りで、本人も「今までで一番、緊張した」と言っていたが、二作目の「バルセロナ」あたりから波に乗り、流れを作ってくれた。
二番手は山口。長身の彼女が、本人が選んだアイリッシュ・フォークを聴きながら身を少し揺らせて登場すると、ステージ映えがする。パフォーマンスだから、当然、ルックスも重要な要素となる。見た感じでは楚々とした山口が、淡々とした調子で、ごく日常の雑談の延長のような語り口で話し、それからなにげなく朗読に移り、その内容が声や見た目の印象からはかなり異質な、相当程度毒のあるものなのが奇妙な違和感を与えて、それが魅力的だった。「輪郭」のような軽みのあるものと、「テロ事件にからんでついシビアな内容のものを書いてしまいました」という新作とが微妙な対比で描かれる。彼女も「朝から何も食べられないぐらい緊張しているんです」と語っていたが持ち味は十分出ていた。
三番手は大平。今回の出演者の中では最も若い彼女は、ベーシストとドラマーを配置する重装備のパフォーマンス。このリズム隊の二人がかなりの手だれで、演奏がうまい。うねりのあるリフレインをたたき出していた。そこにピアニカを手にした大平がからむのだが、彼女の声質は透き通っており、詩の内容はいくぶんセンチメンタルなもので、アグレッシブな演奏とはかなり異質でもあり、また一方で最近の女性ヴォーカルを擁するJポップ界のテイストを思わせるものもあって、興味深いものだった。難を言えばやはり、リズム隊の音圧に、彼女の読みが無防備すぎると言うか、バトルに至らないという感じが今後の課題だろうが、何しろ最初の出演でこれだけ見せるのだから、これからの発展性に期待は大きい。また、これは本人の希望だったのか彼女たちの出演中、ずっと舞台が暗かったが、あれはもったいないと思った。せっかくの派手な編成なのだから見せびらかすぐらいで良かったのでは。
休憩を挟んで後半のトップはヤリタ。いきなり手持ちの小型レコーダーからノイズを出しながら会場内を巡り、「あなたの生きがいはなんですか」といった答えにくい質問を観客に向けて発する。そのまま現代人のストレイ・シープ状況をうたう作品に移行。計算された構成が心憎い。次からはギター兼ヴォーカルの男性が登場し、掛け合いとなるが、この共演者の声が素晴らしく甘い美声。音大出の辻元の奥さんが驚くほどのいい声だった。硬質なヤリタの声といいコンビネーションを見せた。野村喜和夫の作品も取り上げていたが、ラップ調に料理。これは野村本人のパフォーマンスではなかなかなさそうなので、アレンジ力が光った。最後は往年のジャニス・ジョプリンを思わせるようなロック調の掛け合いで、終始、計算の行き届いた完成度の高いステージだった。
この日、神戸から駆けつけた平居謙は、いきなりお笑い芸人風のしぐさで現れた。ぐっと客席との距離を縮める。現代詩をいかに一般にもっと親しんでもらうか、という視点から「脳天パラダイスシリーズ」を相次いで刊行、まもなく思潮社から「王様ポップ詩集」も出すという精力的な活動ぶりで知られ、「現代詩手帖」誌上で「ビジュアル・ポエム」論を展開した平居である。大阪版詩のボクシングの主催者でもあった。いかに観客を飽きさせないか、パフォーマンスとしてひきつけるか。大阪名物「たこべえ」の小袋を米軍の食料投下のように客席に投げ込むゲリラチックなパフォーマンスはまさしく芸の域。しんみりした作品を挟み込みなど、展開も巧妙だ。「浜辺かしら」の朗読でヤリタが「乱入」し平居の別の作品を読み始める。気にせず自分のテクストを読み進める平居。その場のポリフォニックな感覚がなかなかおもしろかったのだが、ヤリタが遠慮したのか、その一回しか乱入の試みはなかった。
野村喜和夫は、当日、さいたま市で地球賞の選考委員長を務めるという大役をこなした後に駆けつけてくれたが、「慌ててきたので、BGM用のCDを一枚、忘れてしまいました」という。それはモロッコのラップミュージシャンによるフランス語のラップだという。聴いてみたかった。惜しくも、前半部はア・カペラで、野村作品の中でもよく知られた「風の配分」から披露。アラブ、がきわめてクローズアップされている時期だったので、内容的にも時宜にかなって、また日本語なのにフランス語のように聞こえるその読み。それが先のヤリタの解釈による野村作品とはまるきり別物だというのがきわめておもしろく、ともかく基本バージョンはこれなんだな、と非常に説得力のある読みだった。ついで、自身の編集したG線上のアリアをバックに、量子論を思わせる「あるいはリラックス」「煉獄エチカ」を音楽の流れも計算して読み上げ、観衆を魅了した。
最後に辻元がエレクトリック・ギターに革ジャン、サングラスといういでたちで登場。米同時テロに取材した新作などを、ブルースやラップ、ハードロックにのせて披露し、朗読よりも長いほどの時間、たっぷりとギターソロを楽しんだ(本人が・苦笑)。自分でどうこういうのもなんなので居合わせた人の声を紹介。「いやあ、驚きました。詩人で新聞社の人だとは知っていましたが、こんなにミュージシャンだとは知らなくて。すごいですね、相当に長いことやってらっしゃるのですか。読みも自然な発話のようで、声優さんみたいでしたが。サングラスはいいですね。読んでいないようにみえる」(野村)「めっちゃかっこええわ辻元さん。かっこええなあ。いっぺん大阪でもやってや」(平居)。
その他の感想も。「期待した以上におもしろかった。詩の朗読はお高く止まってるものと思っていたが、七人七様の工夫がありまた見てみたい。高橋さんの詩、自分がノンベイだからか共感。平居さんのタコベイ好きです。ヤリタさんの朗読は韻があってインパクトあり、野村さん淡々とした朗読はすてき。辻元さんはめちゃめちゃかっこよかったです。缶詰の甘いだけのフルーツ、に感動」(デザイナー・小山内仁美氏)「辻元さんの声に陶然としました。言葉としては知っていた詩ですが、音韻の魅力を堪能。野村さんのフランスの味、平居さんのノリ、元気なヤリタさんの身体的な表現にも圧倒されました。きっとライブ・02もやってください」(三一書房・中島岳氏)
そのライブ02だが、二〇〇二年十月十九日、東京・池袋サンライズ(豊島区南池袋四の一九の六 日の出ビルB1 @〇三・三九八五・三九八六)で開催の予定だ。
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