野球を無視する自由をくれ
なんでもいいが、急に読みたくなってマキャベリの「君主論」を読み返している。私は民主主義などというものを近頃、ひどく疑っている。というか、マキャベリの言い草では、政体というのは君主制、共和制、民主制と来て、最後は衆愚政治に堕落しそこからまた僭主が現れるものだ、というから、もはや衆愚政治の段階に堕落しているのではあるまいか。
それで思う、唐突だが、野球の話はなんとかしてほしいものである。
銀行が統合するのにファンの、というかお客さんの声を聞いたか? カネボウが不採算事業をたたむに当たって顧客の声を聞いたか。あそこで顧客が反対、と言ってももちろん方針を変えるわけがない。経営者は株主の了解を求める。ファンではない。野球だって同じではないか。文句がいいたい人は、経営会社の株主になるしかない。あそこで数を頼みにごねるのは単なる我儘である。それは民主的なのでなく、ルール無視に過ぎぬ。
球団側と選手会の交渉で思ったのだが、名乗りを上げているのがIT企業ばかりなので、参入審査には慎重にならざるを得ない、という立場の経営側の言い分を、ただただ頑なだと切り捨てていいのかしら、と私は思った。なにしろIT企業というのは迅速な経営判断が売り物なはず。最初の売名には既に成功したろうが、今後もし新球団がいつまでも採算に乗らなくても、五年でも十年でも我慢して、本業に悪影響を与えるようなことになっても続けてくれるかどうか、という点は確かに引っかかるのではないか。思うに、来年一年ぐらいは新球団ブームでいけるかもしれないが、日本人はとにかく飽きっぽい。三年先には今の近鉄より悪くなっているかもしれない。それでも続けるかどうか、であるが。それでなくとも今、にわか野球ファンが急に増えているのではないか。この人らが本当に球場に足を運び続ければ問題はないのだが。
とにかくテレビ放映権以外、ビジネスとしてはあまり儲からない業態であり、しかも間違いなく斜陽産業だということを忘れてはいけない。世界的に衰退しているスポーツなのだということは厳然たる事実である。
また、気になるのが「いい試合が見たい」という決まり文句のうそ臭さである。それは本当なのか。私の知っている巨人ファンでも阪神ファンでも、自分の応援するチームが一〇対〇とか、二〇対〇とか、圧倒的にボロ勝ちしている試合を見たい、相手のチームなどどうでもいい、と言っている。それが本音じゃないの? 僅差のいい試合が見たい、だから戦力の均衡を……などと言う人がいるが、それは誰かに洗脳されて奇麗事を言っているのか、本気でそう思っているのか、真意を問いたいものである。私は妙な奇麗事が出てくるので、野球の話が嫌いなのである、昔から。要は興行である。映画や芝居の興行は、客が入るかはいらないか、である。客の入りが悪ければ、ほかにどんな理由を付けても失敗である。監督は解雇、役者は引導を渡されフィルムは倉庫にしまいこまれる。それだけだ。
野球にしろ、相撲にしろ、それだけのことではないのか。無理に守るほどの伝統芸能でもないように思う。
そんな金があったら、日本の場合、漫画やゲーム、アニメ、映画、あるいは文学活動などにもっと予算を付けて振興してもらいたいし、そうあるべきだと思う。
そしてぜひ一言、言わせて欲しい。私は野球が嫌いだし、ストにも新球団にもまったく興味がない、と述べる自由を認めてもらいたい。どうもテレビを見ているとみんながみんな野球ファンで、選手会長・古田を応援しなければならないような感じである。あの億万長者が七十人もいる自営業者の団体が、いわゆるサラリーマンの労働組合なのか、という視点ももっともなものだが、それは暫く措く。
私にとっては、かかるスポーツは存在していないも同然なのだ。だからどうか、この野球ファシズムに巻き込まないで貰いたいものである。
野球ファシズム。そうじゃないのか、これは? 野球を無視する自由、嫌う自由を認めてくれまいか。
ほんのすこし前、参院選前までの正体不明な「小泉人気」というものもそうだった。なにか小泉政権を批判することは憚られるような雰囲気が短期間だが、日本を支配したのを皆、既に忘れてしまっただろうか? 年金問題がなければ、あのまま夢遊病のように福祉削減と増税が前倒しでどんどん決まって行っただろう。そして「識者」だのマスコミだのは、万事が結果にあとづけした説明で「首相の方針は間違っていないので国民は耐えるしかない」と援護し続けただろう。
もう民主主義ではないのではないか、歴史的段階は。ああ、ヒトラー総統閣下が今、生きていればさぞかしお喜びだろう……。
ああそれで。詩人はこうあるべきだ、かくあるべきだ、というのもだからやめて欲しいものである。たいてい、大きなお世話である。
さて最後に、ここ三か月ほどの間に読んだ詩集で、辻元が個人的にお気に入りに入れたものを挙げておきます。流行関係なし。いつも通り、全く個人的な興味関心の羅列です。石原武『飛蝗記』(花神社)は卓抜なユーモアと着想、言葉と連想の波状攻撃は詩作のひとつのお手本なり。絶対外れのないベテランの仕事。筧慎二『村雨橋』(山脈文庫)自身の老いと二人三脚ともいえるこの境地は未踏か。憧れすら感じますね。若い者ほど必読。久宗睦子『絵の町から』(本多企画)みずみずしいです。潜在意識から持ってきたような仄かな色香をすら感じるのです。高橋紀子『ひとり』(本多企画)これが第一詩集だそうだが、無駄な言葉を切り詰めたような作風が独特じゃないだろうか。余白や行間に語らせるタイプと見た。中村純『草の家』(土曜美術社出版販売)アイデンティティーを問う系の文学は決して私の得意分野じゃない(私は徹頭徹尾、自分自身しか信じていない悪人である)。にもかかわらず、この第一詩集はよい、と思った。やはり己の立ち位置がある人の表現は凄みがある。ふわふわしがちな若い詩人は読むべし。奥野祐子『スペクトル』(西田書店)この人、なんと十一年ぶりに出した新作である。体当たり的な、生理的な部分で、素っ裸になることを厭わぬ勢いは健在。面白い。それから野村喜和夫『金子光晴を読もう』(未来社)反骨の詩人、というようなことをいくら言ってもしょうがないじゃん、要は自己のことばかり語った詩人なんです、というこれは快著と思う。文学なんてそもそも、そういうもんである。理論で書くもんじゃない。麻生直子編『女性たちの現代詩』(悟桐書店)これは企画としてよく出来ていますが、特に、それぞれの作品に作者自身のセルフ解説がついているのが大特典です。編集者も苦労したでしょうが、アンソロジーというものを安易な拡大同人本のようにやらず、やはり工夫が欲しいわけで、この本はそのへん、お見事です。
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