誤読できるのが、いい詩である
正直に言って私はそもそも現代詩なんてものがよく分かっていない。なにかほかのものとは違うというのなら、それはその「ほかのもの」を理解していなければならず、そして、ほかのもの、というのはつまり近代詩、なのだろう。歴史的には。
この点について、試みにもっともお手軽なネット上のフリー百科事典『ウィキペディア』を引いてみるとこんな具合にとてもよくまとまっている。よっぽどてだれた人が書いたんだろうから、長くなるけれど、かいつまんで引用してみます。
「現代詩は近代詩の形式主義化、耽美化などへの反省により、二十世紀初頭に生まれた詩をさす。現象学・実存主義に影響を受けた哲学的な内容、性や暴力など近代詩が扱わなかったタブーへの切り込み、日常とかけ離れた特異な言葉遣いによる異化作用、などが特徴的である。各詩人詩人によって、作風が大きく異なり、共通するものが少ない「分散性」が現代詩の一つの特徴だが、あえて共通要素をとりだすとしたら、私的性が強いことが挙げられる。また近代詩によって既に日常言語が手垢にまみれたものになったため、現代詩は奇抜な言語表現や隠喩に頼らざるを得ず、その隠喩がまた手垢にまみれるにつれ、詩人はさらに新奇な表現を求めざるをえず、現代詩は難解で尖鋭的なもの、現代人の心情からかけ離れたものになってしまった。奇怪で独善的な詩的境地に自己を落とし込まないと書けないという詩の矮小化が生じてしまったのである。私秘性、難解性から現代詩は生命力を失い、各詩人が孤立して先細るという状態が現れた。
一方、オンライン詩の傾向としては、相対主義や競争否定の考えから、詩に優劣はなく、名人も素人も同等であるとする平等主義が強い。一方そのような考えは芸術の堕落であり、より高質な詩を目指して精進すべきだという考えは紙メディアを中心にして、熟練者を中心に根強い。その結果として、詩壇はさらに大衆詩と芸術詩の間の亀裂を深めている」。
あまりにもうまくまとまっているので、今の詩の状況についてこれに付け足すことなんてなにもないようである。要するに新奇な表現でごく私的なタブー破りを書いていくのが現代詩だったんだけど、結果としてもうほとんど書いている本人にしかわからない日本語になっちゃって、各人勝手に袋小路に落ち込んで自滅するばかり、と。
そして、もともと現代詩にはモダンに対するポストモダンみたいなもんで、そもそも傾向がない。分散性こそが特徴であるという。
してみると、ひとつには各人勝手に書き、それをまた褒める人も各人勝手に褒める。それが現代詩というものである、と。するとまずいことになるんですが、本稿で私に与えられた「現代詩の読み方」というのは事実上、意味をなしていないことになるでしょう。詩の読み、詩の批評というのは私個人の勝手な行為で他人に伝えても無意味である、と。
実のところ、私は某詩誌でいくらか書評もやっていたりしますが、やればやるほど訳が分からなくなる。いちばんの問題は、詩集といってもあまりにも傾向がばらばらで、どれがいいとか悪いとか批評しようがない。それから、私がいいと思うとか思わないというのはまったく自分一個の感想に過ぎない。そもそも、私がいい、と思う理由もほとんど私の個人的な勝手なもので、書き手からすると的外れか大きなお世話なのではないか、と思うことがしばしばである。もちろん、文学というのは書き手と読み手の関係というのは微妙なものです。といっても、こうまで各人勝手でいいというなら、後はこの世界で長くやっているとか、有名な賞を貰っているとか、権威であるとか、そういう人の感想を主流的な批評、と見なす処世的態度であるしかなく、してみるとまた私は困ってしまうのです。
私のような詩の世界の一匹はぐれオオカミは、個人的な感想は持ち得るが、それだけである、ということです。だって偉くないんだもの、私は。
だから、この文章を読む人は、そういうつもりでお読みください。なんの参考にもならない、と思ってもらっていい。これは何か挑発で言うのではない。私の近頃の一種の諦念なのであります。
では、近頃、私が個人としていいと思ったのはどんな詩か。これがまた難しいですが、たとえばこんな詩がありました。
放置自転車 奥野祐子
放置自転車になりたい/流星群の降る夜に/町のごみすてばの横に/乗り捨てられたままの/放置自転車になりたい/つめたい銀のサドル/けっして もう 走りたくない/車輪が寒さで縮んでゆく/もう 誰のものでもない/ほっといてくれ/みつけないでくれ/このまま ここで 赤く錆びついたまま/いつまでもただ 空を見上げていたいのだ
(奥野祐子個人詩誌「Quake」から)
これが私の心を捉えた理由は、ひとつに表現が平易なのではなくて、故意に無防備な点です。そして故意に無防備な言葉、というもので肉を切らせて骨を断つ。この詩人はそういうのが非常にうまい。大方の詩人は己の疎外感を描くならもっと身構えて書く。この詩は「私はこんなにんげんです、表現やってます」というのをわざと見せる。こういう捨て身さ加減は実際には大いに戦術的に練られたものと思うのだが、不用意な人は、若い人らしい素直な作品ですね、とかうっかり褒めかねない。そういうところが好きなんですな。私は。だがあくまで私の見たところ、である。
こんなのもありました。
ふるえる耳(部分) 岩木誠一郎
そのようにしてわたしは/答えるたびに世界を見失ってゆく/あるいは/世界を見失うために問いかける
(詩集『あなたが迷い込んでゆく街』から)
これは、この一連がとにかくカッコいい。カッコいいでしょ? しかも気取ったカッコよさとかクールなカッコよさでなくて、実に穏やかにカッコいいのがいい。作者としては、そのような褒められ方をされてもなんの喜びもないかもしれないが、私はこのようなフレーズが個人的に好きなのだからしょうがない。
海馬に浮かぶ月(部分)尾世川正明
月はぼくの胃の中でパイナップル酒に染まり/唇を薄く開いている/いたずらな恋人のうすい笑い/そう 恋人は馬小屋においてきたのだ/飼葉に埋めた影のように/それはもう二十年前のことなのか それとも/記憶なんてものはただの落書/シャツについたシミなのか/ともかく 恋人は馬小屋においてきたのだ/恋人は浜辺で拾った貝殻の匂い (詩集『海馬に浮かぶ月』から)
この一連が私をびびッと引っ張ってくれるのは、はっきり言いましょう。エロいからです。これは冗談じゃありません。ここはけっこうエロい言葉の連想で引っ張って読ませるところでしょう。唇に、貝殻、シミ。そして馬小屋のイメージ。作者にそういう意図があるかどうか知りません。私はこういうところを、別に小難しい学説を持ち出すことなく、エロい潜在意識が垣間見えるからこそ文学的で、いいのだ、と断言します。エロさを匂わせないようなものは実のところ文学じゃない、というのが私の持論です。この作者の詩集にはほかにも「馬の尻のような春が見える」(春うらら、仙人)なんてフレーズが出てきて、馬体のエロチシズムというものをふんだんに持ち出しますが、これはフランスの詩人なんかもよく持ち出すものですよね。
私はもっともっと勝手な読み方が出来ます。ここで引き合いに出される方は気の毒ですが、仕方ありません。私がどう読もうと私の勝手なんだし。
貂(部分)矢板進
暑いのに/こんなに毎日のことなのでもう覚えてしまったよ。/ラジオ体操/ラジオがなくても体操できる
(詩集『近隣のキリンとその砲身のながさ』から)
この「ラジオ体操、ラジオがなくても体操できる」が好きですね。どういう風に、といわれてもあれなんですが、ラジオがなくても体操は出来るじゃないか、という文脈で読めてしまって、これが妙に頭に残る。ラジオ体操の本質とは体操であってラジオでない。しかしそうであるならラジオなどなくともよい、という認識なのか、と私は思って面白がった。ところか、わざと引用しなかったんですが、この次の一行は「うたうことだってできるかもしれない」と続いてしまうんです。してみると、私の頭に残ったイメージはまったく誤読の一種です。ここは、作者としてはラジオの伴奏がなくても体操が出来るほど全部覚えてしまった、というだけのことで、私は無意味な読み方をしたんです。が、こういうのは実は誤読とも言い切れない。詩などというテクストは、ばらばらにフレーズが分解されて各人勝手な読みの快楽にもてあそばれる可能性があるし、そういう可能性が高いテクストは文学的である、ということはいえると思うのです、一見、平明な文体であってもそういう可能性が欲しい。私はだから、あまりにも誤読が出来ない明瞭な詩は、実は全然、評価しないのです。作者の明瞭過ぎる意見表明は新聞の投書欄にすればいいのでは、と思うのですよ。
もう一つ誤読してみましょう(笑)。
解析《犬》カルシウム人間(部分)小笠原鳥類
犬は粘土のようなものだし南極ではない、もっと暖かい場所で面白い、動く動く、雪の上で彫刻され、置かれていて動いている。 (詩誌「分裂機械」十三号から)
私は、きわめて我慢強くない人間であって、じっくり詩を読むことができません。瞬間的に電撃的によくないと、感心しないことになっている。そういうことで、実はこのような散文詩系のフレーズもみんな私の中で分解されてしまうのです。
私は「犬は粘土のようなものだし南極ではない。」と読んだのです。
私はこの切り出し方のほうが、原文より好きである。犬は、粘土のようなもの、という断言から「犬は粘土みたいなもんだし、しかもその上で、なんと南極じゃないんですよ!」と畳み掛けられるとどうであろう? 私はその珍妙さに悶絶しそうである。何か言っているのだが何も言っていない。ルイス・キャロルが書きそうなフレーズである。生真面目な論理の脱臼である。
私はかつて、グアテマラの神話「ポポル・ヴフ」の中で「部族の者の数は一万六千人でもなければ二万四千人でもなかった」という一文を見つけて心の底から感心したことがあります。これも、なにか言っているようで何も言っていませんよね。これじゃあ何人なのかさっぱり分からない。この本の初訳が出版されたとき三島由紀夫が絶賛したそうですが、こんな表現は現代人にはどうひねっても出てこない。これと似たような味わいを、私は詩の中のフレーズで勝手に見つけてしまった。すみません。これがいかに私の個人的快楽であることか。
こんなのもあったなあ……。
悪の伝説―永遠に対照的なるもの(終連) 有働薫
ジルは、ジャンヌの解釈である。ジルの悪は
ジャンヌの清純を目に見えるものとするための地の色。白の羽のための黒の布地である。
(詩誌「ガニメデ」三十二号から)
特にこの「ジルはジャンヌの解釈である」という断言のカッコよさに痺れるわけですが、さらにこの詩は「コラージュによる」という断りがあり、注記に何冊かの歴史書などから「共感できる文章を抜き出し、他を書き足して構成した」とあるのです。するとこの部分というのは抜き出しか、書き足したところかわからないのですが、ずるい作者だとこういうのをつまんで、全部、自分の作品のふりをします。この作者はちゃんと断った上で、これを出してきている。その姿勢と、それからコラージュのセンス、つまりこのような部分に詩的な喜びとか哲学的な認識を読み取って構成している、そのこと自体が私などの感興を呼ぶわけですな。
とまあ、全く何の参考にもならないことを書き連ねました。いわゆる参考書的な、教科書的なことを私は一行も書かないですんだことを自分でよかったと思っております。
文学書、というかテクストを読む快楽はきわめて個人的な解釈、自由連想、あるいは意図的な誤読にこそあります。そして、そういうことができるものほど上質のテクストです。これは新しい主張でもなんでもない。
私は、そういう読み手の自由を受容してくれるものをよい詩だと判断します。ほかになにがあるのでしょうか。
|
|
|