この詩の衣のいちまい下はエロい
野村喜和夫「街の衣のいちまい下の虹は蛇だ」
近頃の私というものは文学的には隠者に近い。読んだり書いたりをしていないというわけじゃないが、しかしもう、年齢も三十代のどんづまりである、はっきり言ってこれで若手と呼ばれるのは詩の世界ぐらいのもので、会社なんかじゃもうそれなりにあれこれ、おっかぶせられることも多く、のんきに文学がどうのこうのという気分から遠ざかりつつある。実際、世の中からおおらかさがなくなってきているのは確実であって、生産活動でないようなことは、評価の対象じゃない、というのが極論とはいえないこのごろである。
そんな折に、平居さんからお電話をいただいて、「そういえばあの、去年、評判になった、野村喜和夫さんの、ええと、街の下の虹、じゃないわ、衣の下の蛇は、じゃなくて、あれいい詩集ですねえ」とたまたまそんな話になり、そういえば正確な題名はなんだ
っけ、と私も思いつつ、その一冊の書評を試みる気になったのである。
「街の衣のいちまい下の虹は蛇だ」(河出書房新社)である。
それで思い出した。この詩集が出たのはすでに二〇〇五年の三月のことだが、その後、「長編詩が流行している」という話が「詩と思想」の編集部から来て、それで原稿用紙十枚分ぐらいの長編詩をひとつ書いてください、なんて依頼されたのがその年の秋だった。
長編詩がどこで流行しているのだって? まあ、詩の世界じゃ流行しているのだろう……それにしても最近は私は、詩の世界で誰がどうであろうが、まるでわからないのである。興味がないって言うか、そんなことにかかわっている暇も余裕もない。
が、野村さんの「街の衣の……」のインパクトは、そんな私にも非常に大きいものだった。なにしろ、マクロ経済がどうとかこうとか、政局がどうとか、そんなことばかりに頭を使っている今の私の中で、一文学書がそれと同等の、というかそれとリンクして、というほうが正確だ、位置を占めたのには理由があって、この一冊の長編は、全体として隠喩的に、二十一世紀初頭のトウキョウという変態的な街を精確な虚構でもって紙上に作り上げた力技であって、そこに特に、たとえば近頃のいちいちの現実の事件事象が取り上げられていなくとも、取り上げているも同然だからである。
おおむね、大方のこの世界の論客があれこれ、もってまわった議論を尽くしてしまった後だろうから、私が何か言うとすれば、それは「この詩はエロい」ということである。冗談ではない。女、ではなく女αの「お肉さん」が衣一枚下に透けており、そこにうごめく蛇、というのは生身の人間すべてがとらわれるあらゆる欲望そのものであり詩人の抱く欲望でもあろうけれど、それを「きゃっ」とか「ららら」とかこの詩人独特の、故意に狂ったような「口走り」で埋めていくことで、意味化していくのじゃない、無意味化していくのである。
これが詩である。詩というのはつまりこういうものだ。
この詩を、安易に理詰めで「わかった」ふりをする人を私は軽蔑する。なぜなら、そんなに簡単に詩人の生理を理解したように言うのは明らかに僭越だからである。そうじゃない「分かり方」はおおむね、誤読である。
|
|
|