貴重だった「世代誌59」
この詩誌の創刊時、どなたかの文章で、平居謙さんが当時、「一九六〇年以後生まれの詩人は、それ以前とは違う感覚を持っている、こだわりなきパフォーマー化している」と書いていた。で、「平居さんにばっさり切り捨てられた世代」の詩誌として生まれたのが「59」である、とあったような覚えがあります。
なんでも世代の問題に還元してしまうといけないのじゃないか、個人差の方がずっと大きいのじゃないか、という言い方は常に出来るわけですが、そこは理解した上で「世代誌」というコンセプトを狙った本は、少なくとも詩の世界では珍しかったわけで、そういう存在価値は大きかったと思います。一般の商業誌、特にファッション誌や女性誌ではむしろよくある狙い方なんですけどね。
なんで世代、という括りが、いろいろ問題があるとしても有効なのかといえば、戦後の日本というのはなにかと「らしさ」を否定してきた。ことに「日本人らしさ」「男らしさ」「軍人らしさ」「サムライらしさ」などは追求してはいけない、ということだった。その結果、なんでも個々人の自由意志で「自分らしく」「個性的に」生きることが可能である、という教育に徹してきた。そのへんを衝いてバカ売れしたのが養老孟司さんの『バカの壁』です。あるいは近頃、サムライ映画が流行するのもたぶん、そういうことへの反動です。
実際には自分を収容している身体に規定され性別に規定され文化に規定されて、そういう中で他者との差異を認識する中でしか個性など生まれはしない。なのに「個性、個性」と騒ぐもんだから、今の日本人は世界一、自信がなくて「本当の自分探し」ばかりしている駄目な民族になってしまっている。自分が日本人であるとか、男、あるいは女であるとか、外的規定を全部外してなお残るような絶対的な個性があるはずだ、と思ってあがく。あがく末に馬鹿げたカルト宗教に捕まる。
そういう、ありもしない「個性」など追い求めるうちに、結局残るのが「世代差」なんですね。これは誰にも分かりやすいから。言葉遣い、ファッション、音楽、IT機器への親密度、さらに年金の受取額、経済力といった、どうでもいい要素から政治的な利害まで、結構各世代がまとまっている。それで「今時の若いモンは」とか「年寄りは駄目だ」とか言い合う。最近の「日本語本」ブームというのは、世代間の語彙が非常に分裂して共同体の崩壊を危惧する人々の無意識的な支持が集まったもので、単に「日本語の乱れ」なんてことを問題にしているのじゃないと思う。
私は先の芥川賞で、若い二人を選んだ選考委員の一人が、「若い世代の考えていることは、この人たちが書かないと分からない」などと推薦しておりました。妙なことを言うなあ、なにを若い者に媚びているのか、と思った。あのぐらいの世代にはみんな関心を持っているし、声も発信されている。今、声が伝わらないのは三十、四十代ぐらいの日本人ですよ。
そういうことで、「世代誌」は面白かったと思うのです。七〇年代の音楽やカルチャーにこだわる部分も、どうせなら、もっとあってよかったと思うのです。散文や企画ものは面白かったし、もっと比重が大きくてもよかったかも、と思います。一方、詩については、 三人の書き手の作風は決して似ているとも思わないのですが、やはり扱う事象、語彙、人生観に共通点もあったのではないかと見ております。良くも悪くも、割とおとなしくて真面目、無茶は言わない、書かない、という印象もありますが、いかがでしょう。
今後も、人気ドラマみたいに、五年後とか十年後とか、「再結成」されたらいかがでしょうか。
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