「戦後七十周年」はあり得るだろうか
これは別のところにも書いたことだが、あまり人目に触れないような媒体だったと思うから、改めて書いておくのである。
今年は戦後六十周年ということだった。六十年といえば、もはや今年退職する人が完全な戦後派であることを意味する。すべての現役社会人が「戦争を知らない子供たち」なのである。今時の若い者は、戦争の話などしても聞いてくれない、なんとしても語り継がないと、という声が今年あたりはあった。そのこと自体はよろしいと思う。しかし若い者から見ると、こういう話を避けたくなる理由というものもある。
十年前の戦後五十年のころと比べると、世の中は大きく変質した。今や、日米戦争があったことを知らないどころか、まともな日本語が通じない若い衆で満ち満ちている。まもなく平成生まれの人が社会人となる。この人たちの親は一九六〇年以後の生まれで、興味がないのは当然である。
十年前の、私が二十代の頃、祖父祖母が従軍経験世代、両親が銃後体験世代で、若い者も実は案外に話としては戦争のことをよく聞いていた。そして、今から見ると「戦中派」の人々も今よりもずっと若くて威勢がよくて元気で、そして高圧的だった。
そのころ、ある詩誌の編集者に勧められて、広島出身のある詩人の詩集を取り上げたことがある。その編集者も終戦時に中学生で、記憶はあるといっても実は後知恵が多い、というのは後で分かった。とにかくその時点では、自分よりベテランの人だし、詩人でもあるし、信頼していたのである。で、私はその人の依頼を受けて原稿を送ったが、私の原稿の冒頭の部分がちょっとなにか問題があり、入稿の締め切りも迫っていたので、その編集者が書き直した。それについては、出だしを書き直しておいたよ、と説明があって、こちらも二十代の若造だったし、先方のことを信頼もしていたので、それで結構です、とお答えしておいた。
だが、その後、刷り上ってきた詩誌を読んで驚いた。とんでもない「書き直し」だったのである。詳しいことは忘れたが「一九四五年八月六日に広島に飛来した米軍爆撃機B29リトル・ボーイは、大きな災厄をもたらした……」といったような書き出しになっていたのである。私は驚いてすぐに電話した。「これ、困りますよ。リトル・ボーイって原爆の名前ですよ。飛行機のほうの名前ならエノラ・ゲイじゃないですか」
だが、相手は、もう印刷して全国に発送してしまった、という。私は泣く泣く引き下がった。日ごろ、自分は戦中派だと言って威張っていたくせに、こんな凡ミスをされては。これで恥をかくのは私のほうである。誰も、その編集者が改悪したなどとは知らないのである。そちらの責任で訂正を出してくれ、といったのだが、これも私を若造と見たのか、無視された。そんなものを載せても誰も読まない、というのである。
ところが。その詩誌の次の号が届いたら、またまた仰天させられた。前の号に対する感想コーナーがあって、広島出身で被爆体験のあるY氏が、こんなことを書いていたのである。「前の号で、若い辻元佳史が原爆についてふれていたが、B29リトル・ボーイなどと書いていた。原爆の名前と飛行機の名前を混同しているのである。このように、今の若いものには戦争も原爆も正しい知識はないのである」というのが書き出しなのだった。私の予感は的中した。まさに恥をさらしたのである。しかも、戦中派を自称する人の改悪で。
私は事情を説明しようと思って、Y氏に手紙を送ったが、なんと受け取り拒否で返送されてきた。これまたどういうつもりなのか、と思った。この一事で私を論ずるに足らない相手、と思ったのだろうか。私はこのY氏に対しても遺恨を抱いた。戦争経験者の傲慢、の典型である。Y氏はすでに故人である。
私は以後、太平洋戦争ネタを一切、自分の詩集に直接取り上げることはしていない。
戦争経験者、といっても軍の高級将校だった人、銃後にいた人、子供だった人ではまるで違う。だが、一部の人が五十周年ぐらいまではとにかく「戦争を知らない若い者」を馬鹿にすることで自分たちのアイデンティティーを保っていた、というのはひとつの事実ではないだろうか。そして――戦後七十周年、それはイベントとしてあり得るのだろうか?
例によってこのところ読んだ詩集で個人的なお気に入りを挙げておく。中村明美『ねこごはん』(ジャンクション・ハーベスト)最初に眺めた感想はおとなしいよくある詩集か、と思うのだがちょっと意識して読むと思いがけない発想がまぶされている。「仏壇が膨張しているのはお盆が近いせいかしら。」(津軽じょんがら節考)なんてなにげないがぎょっとする。丸山乃里子『回転椅子』(本多企画)読み飛ばすとぜんぜん見えないのでゆっくり注意深く読むことを要求させられる、そんな詩をいつも読ませてくれるが、今回もそう。抽象的な寓話のような作風が今回はいくつか際立って読ませる。秋山公哉『夜が明けるよ』(土曜美術社出版販売)の中の「記憶のパン」という一編に引かれた。親を失う、親しい人を失うということの意味を鋭く切り取っていて印象深い。海埜今日子『隣睦』(思潮社)男女の間のもどかしさ、を書いたらこの人の右に出る人はいない。男、というかもっと抽象的に他者、というのがはやりか。決してストレートに流さない、という逆に堅い意志すら感じるのである。平居謙『灼熱サイケデリコ』(草原詩社)「女子高生の間で流行ってるルーズセックスいいなあ」(T)という調子の詩集であり、ついてこれない人もいるのかもしれないが、このぐらいでついて来れない人は詩なんてやめてしまってはどうか。このところ実はちょっとおとなしめであった。今回、再び土俵中央に押し戻す熱い勢いを感じる。筧槇二の『評論集・鴃舌の部屋U』(山脈文庫)プラザ合意のあたりから説き起こしたグローバリズム批判は詩人にだけ読ませておくのは惜しい内容。中原中也や宮沢賢治に対する世間の「崇拝」への疑問も興味深い。私もこの二人、あまり好きではない。前原正治『詩園光耀』(土曜美術社出版販売)も詩論集だが、「戦時と詩作についてのノート」が圧巻である。建艦協力のための「辻詩集」というものは私はこれを読んで知った。思えばあの東条英機の「戦陣訓」も実際に筆を執ったのは島崎藤村である。戦争にはなんとしても心を酔わせる美文が必要である。実は詩人は大いに戦争に協力できるのである。
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