”辻元よしふみの世界”からあなたは帰れなくなるかもしれません。

「赤坂江戸城外濠跡あたり」(1998年、思潮社)

この本に関するセルフ解説:潮流出版社を離れて出した最初の詩集。また個人的には独身時代最後の詩集。「時代小説かと思った」という感想多数(苦笑)。本書は思潮社さんから取り寄せられると思います。


アダージョ

なんてことだろう 彼は
具体的な時間と言葉を失いかけていた

時計はせっせと時を刻み続けていたが
外では淡い粉雪が億万年も舞っていた

窓を開けるか それともどこかに
電話をかけようにも誰とも話すことなどなかった

乱れたシーツを剥がし枕を投げ捨てた
架空の血が染みており彼は手を拭った

自分の人生の中で思い出せるすべての光景
すべてのセリフがどれだけあるかを思った

静かなアダージョの曲を聴き
それから消した

ついに彼はその夜を去って 朝ではなく
ただ本当の暗闇がやってくることだけを望んだ

セルフ解説:これは、以前の作風から言うとかなり違う、といいますか、ちょっと象徴入ってます、という感じなんだと思います。版元変わると気分も変わるもんですね、やっぱり。なんかこう、自分でも何が言いたいんだか不明なんですが(苦笑)ちょっとスリラーのような味もあり、個人的には気に入っております。そうそう、このころカラヤンのアダージョ・シリーズがはやったというのは明らかに影響あります。


ぱさぱさ

ぱさぱさ ぱさぱさなのさ 街
紙っぽいメロンパン
プロセスチーズ ぱさぱさもごもご
ぐずぐず かたつむりみたいによく寝る
枯れ葉が落ちるのとわたしが落ちるのとどう違うのって思う
ぱさぱさ ぱさぱさなのさのさ よいよい 宵の街
酔いの街 どうでもよい の お待ち
だれも知らないだれも知らないぱさぱさかさかさ
みんながやってるからいいじゃん
わたしは風であるからには 街を自由に駆け抜ける
わたしは何をしてもいい 牛乳が飲みたい
髪の毛が黄色い 世界中の本を読めば
わたしはなんでも知ってるの? 見たことない
どこか山の奥 だれも覚えていない人は本当に
居たのかしら?
恋人が欲しいから買って欲しい 敵が欲しいから買って欲しい
せかいじんこうは六十億 じんせいはたのしいぱさぱさ
ぱさぱささのさのさのよいよい のよれよれ
だって自然体がいい わたしの庭はとてもちいさい
わたしの胸はちいさい わたしの望みはちいさい カフェオレ飲みたいな 突然ラジオから流れ出る音楽
どうでもいいじゃん ぱささぱさぱさ さのさ よいよい
メロンパン 魚肉ソーセージ
水の惑星 ロシアの古い船から溢れる重油に溺れる水鳥たちよ哀れ
ジャパニーズドリームが目覚まし時計に驚いて手ごろなヤツを殴ります テレクラに電話かけます 偏差値が上がらない
何にもない 何にもない かさかさ
長期予報に寄ればしばらく雨は降りません
なんかすっごいたんなる思いつきっぽいっていうか
大丈夫なんだろか きょうも早く帰るからね
ぱさぱさは
もういらない

セルフ解説:このあたりから思い切りくだけ始めますね、詩語が。もうなんでもありというか、気取りを捨てた明石家さんま状態というか。かといってじゃあこの「ぱさぱさ」というのは何なのか。私が聞きたいです。乾いた叙情詩、というのを目指していたんだろうと思う。そしたら本当に乾燥そのものをうたう詩になってやんの。そんな感じでしょうか。


少年

屋上に上がるといつでも
空があってその上にはなにも
覆いかぶさってくるものなんてない
あの青空をいく飛行機が原子爆弾を積んでいたとしても
日だまりのなか ベンチで静かに語らっている
しかないような
とても日常的な 日常的な 日常的な
なんだろう?

親友よ しばしば僕たちは知るのじゃないか
君が校門で待っていたあの子は僕も待っていたあの子
といったようなことを そして絶望とかなんとか
そのときありったけの言葉をぶちまけては
やがてどうでもよくなるまでの一週間とか一年とか
そんな日々を有意義に過ごすのじゃないか
うがいでもしてゲロゲロ吐き出しちまえ僕の中のアホ
鼻の穴をほじってほじって脳味噌に届くまでほじってしまえ
それで答えなんか出てこなくても
大丈夫 僕らは相変わらずここに存在する

人生なんて誰にでもあるわけで
大概の悩み事なんて独創的なものじゃない
あらゆる小石は真っすぐに地球の真ん中を目指して落っこちていく
僕たちも真っすぐにどこかに向かって
落っこちているのじゃないか
罪が重かろうが軽かろうがみな真っすぐに
真っ逆さまに ね

屋上に上がるといつでも
空があってその上にはなにも
覆いかぶさってくるものなんてない
あの青空をいく飛行機が原子爆弾を積んできたとしても
日だまりのなか ベンチで静かに語らっている
しかないような
とても日常的な 日常的な 日常的な
なんだろう?

飛行機雲がだんだんねじれていく
十四歳とか十五歳とか
そんな心が
今日も屋上に上がってみたりしている

かつての僕たち
と同じように

セルフ解説:こんな詩でも、「原子爆弾」などという物騒な言葉があるために「風刺詩ですね」と見当はずれな批評する人が居て、発表当時困りましたが(もっともどう読まれてもいいんだし、いろいろ読まれる懐の深さはむしろいいこと)、これは辻元流の青春詩もしくは青春文学のパロディー、その両面の結実でありましょう。これは珍しく、14,5歳の中学生ぐらいの人に読んでもらいたくて書いた作品。ちょうど「切れる十四歳」とか言われてた時期でしょう。学校の屋上、というのになにやら切なさを感じませんか。窮屈な学校、そこから仰ぎ見る広い空。じれったい時間の流れ。暴発しそうなやばそうな自分。発表当時、「うがいでもしてゲロゲロ吐き出しちまえ僕の中のアホ」というフレーズが結構、おもしろいと言われました。この過激な青春詩を掲載してくれる国語の教科書はないでしょうなあ。


赤坂江戸城外濠跡あたり

赤坂
江戸城外濠跡
そのころ トウキョウはなくてただ
江戸城の外郭線がこの近辺に延びていた
慶長年間の初め
たくさんの使役の男たちが日本中から集まって
普請奉行の命に従いここにも群れた
光る裸 たくましい背中 あちらこちらの大名家の紋所
下帯がきりりと割り込む筋肉質の尻 たくさんの健康な尻
積み上がる石 石の上に石 その石の上にまた石
恐らくは昼
作業は昼
四百年の昔

まっすぐな石の断面は今日でもぴったりと
組み合わさったまま 
何かを防ぎ止めているように見える
弁慶濠 首都高速四号新宿線の交差点脇歩道橋下から
見上げた赤坂プリンスホテル新館「クリスタルパレス」は
非現実的な夜の闇にエアスプレーで上手に描きこまれた
鋼鉄の天守閣である
虚構の城である
夜が明けてもなおそれは本当に実在するというのか
四百年も後の夜明け
二十五世紀も半ばのあるまばゆい白昼に
それがなんらかの痕跡を残している可能性は?

寒い夜 寒い夜なのであった 過去と未来の間
たった今のこの瞬間を力みかえって主張するのは
一九九七年二月十三日午後六時五十分
というある一連の数字である
私は三十歳を目前にしており
私はひどく寂しかった
ほかにどういう言い方もできないのだった
枯れた植え込みが絡みつくのろのろした時間
私はその古城のほとりをさまよっている
まっすぐな石の断面は今日でもぴったりと
組み合わさったまま
静かにその場所を占めて
何かを防ぎ止めているようである

セルフ解説:ある一瞬を記録したかった作品です。二十九歳のその夜、私はその一瞬を、四百年も前に建てられた古城のほとりで記録しているのです。普請現場の幻影を見ながら。そして永遠なんてものはないのだろうと思いながら。少なくとも石工たちがくみ上げた見事な石垣ほど、今のどの人間もその人生も、きらびやかな摩天楼も、耐久力を持っているとは信じられません。もし残るとしたら・・・それは、私たち個々人の意図を超えたことでしょう。おお、なかなか深いじゃないの、これ。


自爆人形

わたしは脳味噌ばかりになってしまった
かれこれ百年の間
孤独な脳味噌を容れた人形
誰も近寄ってこないのだ
記憶のみでは
脳味噌のみでは
わたしは温かいものも柔らかいものもついに
忘れるしかない

一切合切の
虚無よ
大方の言葉のみでそれを説明する努力よ
そういう愚か者たちよ
絶対的なわたしが全宇宙を占める絶対静止的な監獄
ということが分かるか
看守も囚人もわたし
であることが分かるか

自爆したい 破裂したい 溢れてしまいそうだ
ここは寂しすぎる こことはどこか?
わたしは孤独な脳味噌を容れた人形

セルフ解説:このへんは、もうこのまま味わってください。いろいろ言っても蛇足かな。ただ、私は思って居るんです。詩にもエンターテイメント系とかミステリー系、サスペンス系、ホラー系、SF系、エロ系などあってもいいじゃないか、と。「アダージョ」なんてちょっとサスペンス系かも。で、この作品はちょっとSFじゃないですかね。永野護のファイブスターストーリーがちょっと、入っています、雰囲気に。この作品が現代詩手帖に載ったらなかなか反応があって、特に井原秀治さんから「新しい詩の予感。うちの分裂機械に入りませんか」と口説かれた、という意味では個人的に思い入れある一作。

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