”辻元よしふみの世界”からあなたは帰れなくなるかもしれません。


不定期日記 2017年

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2017年12月31日(日)
 いよいよ2017年も大みそか。今年もたくさんの方々にお世話になりました。

 今年の私どもの大イベントといえば、10月に東京家政大学で行った講演会「軍服 その歴史とイラストレーション」=写真上=がなんといっても大変でした。台風が迫る中、本当に会場がいっぱいになりまして、ご来場いただいた方々には改めて厚く御礼申し上げます。

 それから、今年は7月に私たちの著作『軍装・服飾史カラー図鑑』(イカロス出版)の台湾版である『『圖鑑版 軍裝・紳士服飾史』』(楓樹林)が刊行されました=写真下。これまでも中国語版が刊行される経験はありましたが、やはり新しい本が出ると、それを機に、海外の読者からのご連絡が来るようになるなど、嬉しい出来事でした。

 ほかにも、今年はいろいろな方との出会いがありました。振り返ってみると、年末の最後の最後まで、相当に忙しい一年だったように思います。
 私自身や家族の体調不良というのも、ブログやSNSに取り上げませんでしたが、実はけっこうありました。
 トータル的には、かなり厳しい年だったような…。

 来年は、実りのある一年にしたいと祈念しております。皆様のご多幸をお祈りしております。どうぞよいお年をお迎え下さいませ。
本年はまことにありがとうございました。


2017年12月29日(金)
いよいよ2017年も押し迫りました。このほど、ジャッキー・チェン主演の中国・インド合作映画「カンフー・ヨガ」(功夫瑜珈、Kung Fu Yoga)というものを見ました。要するにカンフー映画とインド映画を足して、そこにインディ・ジョーンズの宝探しを混ぜてコメディーにしたようなけったいな一作ですが、これがなんとも奇妙な魅力にあふれています。今年の1月に中国、2月にインドで公開されて250億円以上を稼ぎ出し、興行収入的にはこれまでのジャッキーの主演映画の中で過去最高、となったそうです。
とはいえ、中国+インドで「カンフー・ヨガ」などというイージーかつ不真面目なタイトルから想像されるほど不真面目な内容でもなく、話の大筋は荒唐無稽ですが、意外に史実をからめた歴史ファンタジーでもあります。
映画館が飛躍的に増大し、アメリカを抜いて世界最大の映画市場となりつつある中国。そして独特の映画文化で世界に冠たるボリウッドを持つインド。両者が組んでの娯楽映画製作は、間違いなく成功しそうな要素満載です。しかし、実際にはこの二つの大国は決して仲良くありません。今月も、習近平主席の唱える現代版シルクロード「一帯一路」構想について、「インド政府は、14日に北京で開幕した国際協力サミットフォーラムへの参加を拒否した(産経ニュース)」という感じで、習氏の顔に思い切り泥を塗った感じです。そんな中、この映画では懸命に「両国が手を汲めば、一帯一路にも貢献できますよ」といったセリフがちりばめられ、政治的な配慮も垣間見えます。しかし、そういった点も、奇想天外な、あまりにもインド映画的な豪華絢爛なクライマックスに向かううちに、だんだんどうでもよくなる。それこそがこの作品の最大の特徴と言えましょう。

647年のインド。玄奘三蔵が仏典を持ち帰って以来、中国・唐王朝と友好関係にあったマガダ王国でクーデターが勃発。王位を奪った反乱者アルジュナは、マガダ王家が唐に献上しようとした財宝を奪おうとしますが、唐から受け取りに来た使節の軍人の活躍で阻止されます。マガダ王女は援軍を要請するために、配下のビーマ将軍を唐に向かわせますが、将軍の一行はチベットの雪山で行方不明となってしまいます。
 それから1400年後の中国・西安。消えたマガダ王国の財宝を探すことをライフワークとしている兵馬俑博物館の考古学者ジャック(ジャッキー・チェン)の元を、インドの考古学者アスミタ博士(ディシャ・パタニ)が訪れます。彼女は、消えたマガダ軍の財宝のありかを示す地図を示し、協力を求めます。ジャックはアスミタと助手のカイラ(アミラ・ダスツール)、それに亡き友人の息子でトレジャーハンターのジョーンズ(リー・アーリフ・リー)、自分の助手シャオグゥアン(レイ)たちを連れて、地図が示す山中の地下深くに向かい、ついにマガダ軍の兵士たちの遺体を発見。しかしそこに突然、インドの富豪ランドル(ソーヌー・スード)率いる武装集団が現れ、ジャックたちと乱闘となります。このどさくさにまぎれ、ジョーンズは真の財宝の所在を示す秘宝「シヴァの目」を盗み、一人で逃げ出しました。
 数日後、アスミタから、ジョーンズがシヴァの目をドバイで開催されるオークションに出品したという知らせが届き、ジャックたちは急きょドバイへ。現地に住む大金持ちの友人ジョナサン(チャン・グオリー)の助けを得て1億6000万ドルの大金でシヴァの目を落札しますが、そこにまたもランドルの一味が現れて、これを奪い逃亡します。ジャックはジョーンズたちと協力してランドルを追跡するのですが、結局、シヴァの目は最後に現れたアスミタが奪い去ってしまいます。
ジャックたちは事の真相を知るべく、インドの研究機関に向かいアスミタの元を訪れます。実は彼女の正体とは…。

というような展開ですが、ジェットコースター的な急展開で突っ込みどころ満載の脚本はむしろ、それがそもそもの狙いとしか思えない感じです。頭が硬い人の批判は初めから受け付けません、だってこれは娯楽の王道作品ですから、というところでしょう。
ジャッキー・チェンのアクションは冴えわたり、これでもかと繰り出される、きらびやかなドバイの街や黄金キラキラのインドの財宝は、おめでたい正月映画にピッタリ。ドバイ王室提供で、何台も本物のフェラーリやランボルギーニの高級車が使用され、惜しげもなくカーチェイスでクラッシュされる様は、それだけで唖然とさせられます。ドバイ警察が保有する超高級パトカー「プガッティ・ヴェイロン」(定価2億円ほど。最高時速400キロ以上)もしっかり登場しており、車好きな人は必見でしょう。
なんといっても登場するのが八頭身の美男美女ばかり(ジャッキー本人は体形的にはちょっと違いますが)。特にアスミタ役のインド美女ディシャ・パタニは、現実離れした美貌とスタイルの持ち主で、こんな人が本当にいるのか、まさかCGキャラクター?と思われるほど。カイラ役のアミラ・ダスツールも、本作ではコメディー担当のちょっと三枚目な役回りですが、こちらも輝くばかりの美女です。いずれもインドでもまだ主演級とはいえ新人クラスの女優さんですが、インド芸能界にはこんな才色兼備の美女がいくらでもゴロゴロしていそう。恐るべき潜在的底力。やはり次の時代はインドですかね…。
一方、ランドル役のソーヌー・スードは、インドでは有名な悪役スターだそうです。
最後の最後、ゴージャスかつ怒涛の(?)エンディングで、途中の経過は何もかもどうでもよくなるような至福体験を味わえます。娯楽映画はこうでなければ。インドの映画では、いろいろ困難があっても、最後は笑って楽しく、という鉄則があるそうです。現実のこの世は苦しいことばかり、せめて映画の世界では幸福を味わいたい、というのがインドの考え方。
今年一年、大変だったな、という方には特にお薦めの「締めの一作」かもしれません。


2017年12月28日(木)
「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」Star Wars: The Last Jediを見ました。鑑賞したのは12月27日ですが、この日は奇しくも、ちょうど一年前に、レイア姫ことキャリー・フィッシャーさんが亡くなった命日。そして、去年のこの日も、シリーズの前作で、若き日のレイア姫が最後に登場する「ローグ・ワン」を見ていたことを思い出しました。今作はまさに彼女の遺作となってしまいました。
いわゆるSW正史の「エピソード8」にあたる本作。批評家筋はこぞって称賛しておりますが、一部の熱心な「昔からのSWファン」という人たちからは、多少の違和感も持たれている、という話を聞きます。つまり、SWらしくない、という感じを受けるというのですが、私は、その変化というのは、監督がライアン・ジョンソンに代わったことだけでなく、やはりシリーズ全体の大詰めを迎えていることが背景にあるように感じました。
あえていうと、外伝である前作「ローグ・ワン」に通じるものがあると感じます。簡単にいえば、正史シリーズでは、その後に続く展開から制約が多く、ことに時代を遡って製作された作品の場合、後の時代の作品に登場する人物は「決して殺せない」ということがあります。たとえば、エピソード1〜3の間には、ダース・ベイダーことアナキン・スカイウォーカーを勝手に退場させるわけにはいきません。
しかしとうとうシリーズもクライマックス。一連の時間軸の最後に当たる今、どの人物をどう扱うかはまさに監督の自由! それが決定的な持ち味の差になっていると私は思います。「ローグ・ワン」は、後の正史との兼ね合いから、ほとんどの登場人物は一回限りで、その後の時代には「活躍してはならない」ということが、かえって緊張感を高めて傑作となりました。
今回のエピソード8にも、そのような緊張感を感じるのであります。それが、明快なスペースオペラだったSWシリーズの中で異質な印象を与えるのかもしれません。
また、ストーリー展開的にも、主要な人物たちそれぞれの人生が思いがけない方向に大きく変転していくこと、さらに脚本構成として、苦境に立つレジスタンス軍、敵の戦艦に潜入する秘密部隊、そしてフォースをめぐり葛藤するレイ、カイロ・レン、ルークの3人による息詰まる心理戦、の三つのお話が並行して複雑に展開し、これも従来の非常に明快だったシリーズとは違う感じをもたらしていると思われます。

遠い昔、はるか彼方の銀河系で…。
銀河帝国の残党「ファースト・オーダー」と、新共和国のレイア・オーガナ将軍(キャリー・フィッシャー)率いる私設軍隊「レジスタンス」の戦闘が激化。前作でレジスタンス軍は、ファースト・オーダー軍の司令官ハックス将軍(ドーナル・グリーソン)が指揮する新兵器「スター・キラー」の破壊に成功しました。しかしそれと引き換えに、レジスタンスの拠点、惑星ディカーの位置が知られてしまいます。ハックス将軍のファースト・オーダー艦隊が基地を急襲し、レジスタンス軍は壊滅状態に。ポー・ダメロン中佐(オスカー・アイザック)の活躍により、ファースト・オーダー艦隊の主力艦「ドレッドノート級スター・デストロイヤー」を撃沈できましたが、レジスタンス側の被害も甚大で、生き残ったレジスタンス艦隊は、ハイパースペースへワープして逃走します。ところが、ファースト・オーダー艦隊は、レジスタンス軍のクルーザー(巡洋艦)に仕込んだ追跡装置により、行き先を追尾していました。
そのころ、惑星オクトーの孤島に身を潜めている伝説のジェダイ・マスター、ルーク・スカイウォーカー(マーク・ハミル)を探し当てたレイ(デイジー・リドリー)。ところがルークの反応はそっけないもので、レイは全く相手にされません。しかし、盟友ハン・ソロが、その息子であり、かつてのルークの教え子でもあるカイロ・レン(アダム・ドライバー)に殺されたことを知ると、悩んだ挙句、ルークはレイにフォースの訓練を施すことにします。
 ハイパースペースを抜けたレジスタンス艦隊を、カイロ・レンの部隊が奇襲してレジスタンス側は大敗。総司令官であるレイアが意識不明の昏睡状態になってしまいます。その代理として、ホルド提督(ローラ・ダーン)が臨時指揮官の任に就きますが、慎重派のホルドと熱血漢のダメロンは気が合わず、人間関係がうまくいきません。
ポーはホルド提督には無断で、敵の追跡探知を阻止する隠密作戦を進めます。フィン(ジョン・ボイエガ)と整備士のローズ(ケリー・マリー・トラン)の2人は、ファースト・オーダーの総帥であるスノーク最高指導者(アンディ・サーキス)が座乗する旗艦「メガ・スター・デストロイヤー」の探知機を破壊するべく、戦艦への侵入コードを解読できる暗号破りの名人に接触するために、惑星カントニカに向かいます。ところが、この星でフィンたちは警察に捕まってしまい、絶望の淵に立たされます。そこで声をかけてきたのは、「俺なら戦艦のコードを破れるぜ」と豪語するあやしげな男、DJ(ベニチオ・デル・トロ)でした。
 そのころレイは、ルークによる訓練を受けるうちに、カイロ・レンと心が接触することが多くなります。動揺するレイとカイロ・レン。そしてルークもまた、レイが父アナキンや、カイロ・レンと同様に、フォースの暗黒面に落ちるのではないかと危惧するようになり…。

 といったことで、かなり前作で期待させられたような、予定調和的な展開とはならないで、物事はレジスタンス軍側にとって悪い方に、悪い方にと進んでいきます。苦心して遂行したことがうまく実らず、絶望するというシーンが繰り返されます。多くの登場人物が、特攻隊のような決死の攻撃で命を落としていきます。このあたりの救いのなさが、SWらしくない、といわれるゆえんなのかもしれません。ただ、むしろ日本人的に見ると、何か我々が親しんできた時代劇や戦争映画によくみられる、自己犠牲的なテーマに近く、大いに琴線に触れるものがあるように感じます。私は本作を見ていてなんとなく、登場人物のほとんどが戦死してしまう「宇宙戦艦ヤマト2」を思い出しました。
 ただ、いい塩梅でユーモアあふれるシーンも盛り込まれて、緊張感あふれるシーンの合間、合間のところどころでほっとさせられます。意外に見終わった後の感想は重いものではなく、それは適度なバランスで、緻密に配置された、そうしたくすぐりの効果も高いのではないかと思いました。あの懐かしいヨーダ(声:フランク・オズ)が思いがけないところで登場するなど、嬉しいサービスもあります。
 滅びゆくジェダイ。そしてルークとレイアの物語にも、結末が近付いていきます。これからどのような未来が待ち受けているとしても、もはや古き良き時代は再来しません。前作でハリソン・フォードがシリーズを去り、キャリー・フィッシャーが亡くなったことで、レイアの出番もこれで終わってしまったのでしょう。
 一抹の寂しさを覚えるのは、やはり一時代の終焉を予感させるからかもれません。1977年に開闢したスター・ウォーズの宇宙も、次作でついにひとつの完結を見ることになります。厳粛で壮大な物語でした。


2017年12月24日(日)
 今年のクリスマス・イブは日曜日ということで、いろいろ楽しい催しをされている方も多いのではないでしょうか。私どもは本日は多忙ですので、数日前に昨年と同様、帝国ホテル地下のレストラン「ブラッスリー」にて、家族クリスマス会兼忘年会を行いました。ホロホロ鳥のメインディッシュがことのほか美味でございました。

2017年12月18日(月)
 このほど日本甲冑武具研究保存会の研究会が、東京・早稲田の水稲荷神社・参集室で開催されました。会員で甲冑師の佐藤政孝様のご紹介で、私どもも伺いました。鎌倉の下馬遺跡から出土した非常に珍しい大鎧についての説明があり、熱い議論が展開。非常に濃密な2時間余りでした。甲冑の研究は日本の誇る文化財の保存という意味で大切ですが、公的な研究機関や大学などの活動や研究は限られたもので、この会員の皆様のような方々が私財を投じ、時間を削って活動されていることが多いのです。頭が下がります。

2017年12月17日(日)
 9月にオープンした銀座の新しいテーラー「ザ・クロークルーム東京サロン」のレセプションが、このほど開催されました。
 このお店は「ギンザ・シックス」のすぐそばにあります。クロークルームは元々オーストラリアのブランドですが、日本には初上陸。非常に感度の高い紳士服、レディース、レザー商品などを扱っており、日本では基本的にビスポーク(注文服)のお店となっています。
 かつて「サローネ・オンダータ」を支えた島田氏と林氏、松岡氏がこの東京サロンを立ち上げました。
 「ザ・クロークルーム」104-0061 東京都中央区銀座7-10-5 ランディック第3銀座ビル5階 TEL 03-6263-9976 MAP https://goo.gl/HtEp9N
 月曜日定休。12:00〜19:00(予約制)ということで、まずはお電話を。


2017年12月16日(土)
「オリエント急行殺人事件」Murder on the Orient Expressを見ました。「シンデレラ」「マイティ・ソー」など大ヒット作の監督として、また「ダンケルク」などでの演技派俳優としても知られるケネス・ブラナー。彼が、ギネスブックから「史上最高のベストセラー作家(なんと10億冊以上!)」として認定されているミステリーの女王、アガサ・クリスティの小説に挑んでメガホンを執った一作です。
製作にリドリー・スコットが名を連ね、脚本のマイケル・グリーンは、「LOGAN/ローガン」「エイリアン: コヴェナント」「ブレードランナー 2049 」と今年、話題になった大作に軒並み関わっている売れっ子です。
さて、「オリエント急行殺人事件」というタイトルを聞くと、あの名探偵エルキュール・ポアロが登場するアガサ・クリスティの有名な小説であるというだけでなく、今、40歳代以上の方なら、1974年に大ヒットした同名の映画を思い出すことでしょう。この映画化では、アルバート・フィニーがポアロを演じ、アカデミー賞6部門ノミネート、宣教師役のイングリッド・バーグマンがアカデミー助演女優賞を獲得しました。
その他に、ご存じデビッド・スーシェが演じたテレビ・シリーズ「名探偵ポワロ」の中の一作にも、同じ原作のドラマがありました。
ミステリーですから、結末を言ってしまえばネタばらしそのものです。だからそれについては何も申しませんが、アガサ・クリスティが原作を発表したのは80年以上も前の1934年のこと。当時としては非常に大胆な結末に読者が驚いた一作でした。また、あの大西洋横断を初めて成功させたチャールズ・リンドバーグの子供が誘拐された1932年の事件(つまりわずか2年前に起きた、記憶に生々しい事件)を、小説中に取り込んだことでも話題となりました。
小説発表から40年を記念して制作された著名な先行映画もあることから、この作品の犯人は誰か、といったことはかなり知れ渡っております。そういう中での再映画化、というのはかなり勇気が要ると思うのですが、やはりこの、シャーロック・ホームズと並ぶ世界的に有名な探偵の新しい像を示してみたい、という欲求が強かったのでしょう。エルキュール・ポアロ(ポワロ)というと、おしゃれで小太りで、初老の紳士。頭脳派だけれど自分でアクションすることはまずない、というイメージでした。しかしケネス・ブラナー自らが演じるポアロは、本人もステッキを扱えば達人クラスの武闘派、という描き方で、これが新鮮です。事実、戦前期までの紳士がステッキを手放さなかったのは、単なるおしゃれアイテムではなく、19世紀半ばに、日常的に剣を帯びる習慣が廃れた後、代わりとなるステッキを護身用に持って歩く、という意味合いが強かったといいます。だから、もともと警察官出身のポアロが、護身として杖術が出来るというのも、不自然ではありません。
また、ポアロと言えばヒゲですが、原作では「立派なヒゲ」で、時として相手から滑稽と思われた、というような描写があります。クリスティは相当に大げさなヒゲをイメージしていたらしく、1974年版の映画制作時、存命だった彼女は、ポアロ役アルバート・フィニーのヒゲを見て、がっかりした、という逸話があるようです。そんなこともあり、今作でのケネス・ブラナーのポアロは、顔の下半分を埋めるような巨大な口ヒゲを生やしています。ブラナーは、原作者の表現を重視したため、と言い、「犯人はこのヒゲを見てポアロを滑稽な人物と思い、油断してボロを出す。それがポアロのやり方」と説明しています。つまり、コロンボ警部のよれよれのコートと同じような効果がある、というのですね。
 今回の映画化では、登場人物の設定や名前が、原作や1974年版から、かなり変わっており、その大きな意図は、人種問題を色濃くフィーチャーしている、という点にあるようです。黒人やラテン系の登場人物も加わって、そういう視点が現代的なテーマとして浮上してきます。
 加えて、お話の冒頭でいきなり、聖地エルサレムにおけるキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の争いごとが出てくるなど、まさにタイムリーな話題を持ってくるあたり、決して古色蒼然とした懐古趣味の映画ではないよ、という主張が垣間見えてきます。
 映像的にも凝りに凝っていて、さりげないワンシーンが冴えています。たとえば殺人現場を映すのに、上にカメラを置いて鳥瞰図にして撮る、といった工夫があちこちに見られて、派手な特殊効果はなくとも、見せ方で21世紀の映画であることを訴えている感じです。

 では、ネタバレしない程度にお話の冒頭をご紹介しますと…。

時は1934年の冬。聖地エルサレムで、教会から盗難された聖遺物を見つけ出し、見事に犯人を逮捕して解決に導いた世界的名探偵エルキュール・ポアロ(ブラナー)。その後はしばらく、事件捜査から離れて、イスタンブールで休暇を満喫するつもりでした。
しかし、英国領事館の役人がやって来て、また難事件が発生、という一報をもたらします。すぐにロンドンに戻らなければならなくなったポアロは、イスタンブール発でフランス・カレーに向かうオリエント急行に乗ろうとしますが、バカンスのシーズンでもないのに、なぜか1等客室は満室でした。そこで、オリエント急行を運営する国際寝台車会社の重役である旧友ブーク(トム・ベイトマン)のコネを利用して、無理やり、その日に発車するオリエント急行に飛び乗ります。
ポアロは車内で、アメリカ人の富豪ラチェット(ジョニー・デップ)から声を掛けられます。ラチェットは何者かから脅迫を受けており、殺されるかもしれない、と脅えています。それで、著名な探偵のポアロに警護を引き受けてほしい、と依頼します。しかし、ラチェットの人相に凶悪なものを感じたポアロは、これを断ります。
その夜、突然の雪崩発生で、オリエント急行はバルカン半島の山中で運行を停止。除雪作業がすむまで車内の人々は動けなくなってしまいます。
そんな中、朝になってラチェットの他殺体が発見されます。身体を12か所も刺されて死亡しており、ポアロはブークの依頼を受けて捜査を開始します。
犯人は1等客室の乗客の中にいると思われましたが、全員にしっかりしたアリバイがあることが分かり、ポアロは困惑します。しかし、調べてみると死んだラチェットという人物の正体はとんでもないものでした。さらに、車内の乗客は一癖ある人物ばかりで、各人が何か隠し事をしているようであり、不自然なものをポアロは感じ始めます。
 ラチェットの秘書で会計担当者だったマックイーン(ジョシュ・ギャッド)、ラチェットの執事マスターマン(デレク・ジャコビ)、生真面目すぎてどこかエキセントリックな女性宣教師エストラバドス(ペネロペ・クルス)、人種差別的な意見を公言するオーストリアの学者ゲアハルト・ハードマン教授(ウィレム・デフォー)、富裕なロシアの亡命貴族ドラゴミロフ公爵夫人(ジュディ・デンチ)と、それに仕えるメイドのドイツ人女性ヒルデガルテ・シュミット(オリヴィア・コールマン)、黒人の医師アーバスノット(レスリー・オドム・ジュニア)、室内で犯人に襲われたと主張する遊び好きの未亡人ハバード夫人(ミシェル・ファイファー)、聡明な家庭教師メアリ・デブナム(デイジー・リドリー)、バレエ界のスターでもあるハンガリー貴族アンドレニ伯爵(セルゲイ・ポルーニン)と、その妻で病弱なエレナ伯爵夫人(ルーシー・ボイントン)、中米出身の成功した自動車セールスマン、マルケス(マヌエル・ガルシア=ルルフォ)、それから1等車の車掌で南仏出身のピエール・ミシェル(マーワン・ケンザリ)。この中の誰かが犯人なのか、それとも外部から犯人が侵入したのか。
ポアロが導き出したのは驚くべき結論でした…。

 なんといっても豪華で優雅な世界観です。オリエント急行の列車を完全に再現したセットは、実際に走行も出来るというのだから驚かされます。衣装も華麗なる1930年代の雰囲気を出しつつ、現代的なスタイリッシュさもあり、見事です。ポアロのシャツの付け襟の下からスタッドボタンが見え隠れし、見事な着こなしですが、しかしオシャレすぎるということもない。今回は戦うポアロ、ですからね。衣装は「エリザベス」シリーズや「オペラ座の怪人」「マイティ・ソー」などで有名なアレクサンドラ・バーンです。
豪華といえば、スターの競演です。大スターの勢ぞろいで、1974年版に負けていない感じですが、やはりその旧作でショーン・コネリーが演じた「アーバスノット大佐」という人物が、今作では1930年代には珍しかったと思われる黒人の医師ドクター・アーバスノットに差し替えられているのが、特に大きな変化でしょう。イングリッド・バーグマンが演じた北欧系の宣教師が、ペネロペ・クルス演じるスペイン系のエストラバドスに、さらにイタリア系だった自動車ディーラーがラテン系のマルケスになって、人種的な部分が前に出ている配役になっております。
ケネス・ブラナーとは盟友といえるジョディ・デンチとデレク・ジャコビの重鎮2人が重厚感を加えております。ジャコビは「シンデレラ」でも病身の国王の役で感動を呼んでくれましたね。その他、ジョニー・デップやミシェル・ファイファー、ウィレム・デフォーなどおなじみの大物俳優、女優は紹介の必要もない面々でしょう。いずれも定評ある演技派で、見せ場で実力を遺憾なく発揮しています。特にデップの悪党ぶりは見事! この人が本当に悪そうでないと、この作品は成り立たないですよね。
 新進・気鋭の出演陣で注目なのが「スター・ウォーズ」新3部作のヒロイン、レイ役で知られるデイジー・リドリーです。同じ12月にスター・ウォーズの新作と、このクラシックなミステリーに出て、相乗効果を狙う作戦なのでしょうか。それは見事に成功しそうです。全く違う世界観の映画で、存在感を示す彼女は、今後も伸びていきそうですね。
レスリー・オドム・ジュニアはトニー賞受賞のミュージカル・スター、セルゲイ・ポルーニンは著名なバレエダンサー、マヌエル・ガルシア=ルルフォは「マグニフィセント・セブン」でメキシコ人のガンマンを演じて注目されました。ジョシュ・ギャッドは「アナと雪の女王」のオラフ役と、「美女と野獣」のルフウ役で一躍、人気者に。それから、車掌役のマーワン・ケンザリは今後、実写版「アラジン」に悪役ジャファーとして出演するという話ですが、どんな映画になるのでしょうか。
 この映画の最終部分は、ポアロが途中で列車を降り、エジプトで起きた殺人事件の捜査に向かうところで終わります。1974年の映画も、その後、「ナイル殺人事件」(1978年。ポアロ役はピーター・ユスチノフ)という次作につながったのですが、今作の後もやはり、「ナイル…」に向かっていくようです。
 本作の配給会社20世紀フォックスが、ディズニーに買収される、という報道が流れました。経営問題に関係なく、次作の「ナイル…」が無事に制作されることを期待します。クラシックな装いながら、やはり21世紀のポアロ、だと思います。アガサ・クリスティの作品が、こうして新たな命を吹き込まれて次代に受け継がれていくのは、とても大事なことだと感じました。


2017年12月13日(水)
 気温も下がって、ぐっと師走らしい雰囲気になってきましたね。先日、新宿に行ったらライトアップが綺麗でした。立ち寄った高野パーラーでは、期間限定のクリスマスパフェというのを頼んでみました。

2017年12月11日(月)
 このほど、東京・六本木のハイアットホテルにて、デザイナー、コシノジュンコ先生の御夫君で株式会社Junko Koshino代表でもある写真家・鈴木弘之氏の誕生パーティーが開催されました。70歳を迎えられたとのことですが、とにかくダンディーでカッコいい。そしてスリム。憧れますね。さらにまた、先日、文化功労者となられたコシノ先生もいつでもパワフル。とにかく素晴らしいひとときでした。

2017年11月11日(土)
映画「マイティ・ソー バトルロイヤル」Thor: Ragnarokを見ました。原題は古代ノルド語の「ラグナロク」つまり北欧神話に描かれる世界の終末、「神々の黄昏(たそがれ)」を意味します。
予告編で効果的に使用されていた、英国が誇るハードロック・バンド「レッド・ツェッペリン」の1970年の名曲「移民の歌」Immigrant Songが、本編でも重要なシーンで流れます。あの曲は、北欧からコロンブスの新大陸発見以前にアメリカ大陸に渡っていたとされるバイキングの人々をテーマにした歌詞でした。今回、神界アスガルドが存亡の危機を迎える中で、なんともうまい選曲ですが、独特の豪快なギター・リフとハイトーンの歌声が、戦闘シーンにまことにバッチリ、はまっておりまして、この映画のために作った新曲のようです。
本作はマイティ・ソーのシリーズとしては3作目、そしてマーベルのシリーズとしては17作目にあたるそうですが、「アイアンマン」以来、もうそんなに作ったのですね。
 監督はタイカ・ワイティティという人で、ニュージーランド出身、マオリ系の方だそうです。本国ではすでに監督・脚本家として多くの作品を作っており、俳優としても活動していて、近年では2011年の「グリーン・ランタン」で助演したほか、ディズニー系では「ドクター・ストレンジ」の補助監督、それから自らのルーツを生かして「モアナと伝説の海」の脚本にもかかわっており、実績を積んでのハリウッド大作抜擢となった模様です。
 いわれてみると、冒険アニメ活劇だった「モアナ」と、全く別の素材を扱っているにもかかわらず、なんとなくテイストが似ている感じがします。シリアスなシーンと、ボケとツッコミのギャグ・シーンが絶妙なタイミングで交互するところ、テンポが早すぎず、遅すぎずで、見ていて非常に分かりやすいところ。特にじっくり描くシーンと大胆に省くシーンが緻密に計算されているところ、それから、巨大な敵キャラとの決戦シーン。
 何よりも、いろいろあったけれど、最後は前向きに、ポジティヴに、という感じが、あの「モアナ」に似ているように感じました。近年、この種のヒーローものもすっかり現実的になって、架空の世界であっても、不条理なテロや暴力が横行し、陰惨な内容になりがちです。今作は、舞台が主に地球を離れていることもあり、物語が現実的になりすぎる弊を免れたようです。宇宙規模の壮大なスケールで、あたかも「スター・ウォーズ」シリーズの中の一作であるかのようにも感じます。
 今回は主に雷神ソー(クリス・ヘムズワース)と、超人ハルク(マーク・ラファロ)が活躍するストーリーです。2年前に、アベンジャーズ・チームとして参加した「エイジ・オブ・ウルトロン」での東欧の小国ソコヴィアにおける激闘の後、アベンジャーズは「キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー」で描かれたように、アイアンマン派とキャプテン派に分かれての内輪もめ状態に陥ったわけです。しかし、ハルクはソコヴィアの戦いの終盤で行方不明となり、ソーは仲間を離れて独自に「インフィニティ・ストーン」探索の旅に出たため、このヒーロー同士の内戦に巻き込まれませんでした。戦闘力でいえばアベンジャーズの中でもトップを争う2人が、内輪もめに関わらなかったというのは、全員にとって幸いなことだったのかもしれません。
 では、この2年間、ソーとハルクは何をしていたのかと言えば…。

ソコヴィアの戦いから2年。ソーは独り探索の旅に出ていましたが、そのうち悪夢に悩まされるようになりました。それは、古からソーの母星アスガルドにいつか訪れると予言される破局的な終末「ラグナロク」を予感させるものでした。ソーは炎の国ムスペルヘイムに行き、わざと捕らえられた上で、かつて50万年も前に父王オーディン(アンソニー・ホプキンス)に倒されたはずの炎の巨人スルト(声:クランシー・ブラウン)が復活していることを確認します。スルトが語るには、彼の王冠がアスガルドにある「永遠の炎」に焼かれたとき、スルトは完全に復活して強大となり、アスガルドにラグナロクをもたらす、というのです。
ソーはスルトを倒して王冠を奪い、アスガルドに帰還しますが、アスガルドと異世界をつなぐビフレスト(虹の橋)の番人が、今までずっとここを守っていたヘイムダル(イドリス・エルバ)から、スカージ(カール・アーバン)と名乗る粗暴な見知らぬ男に交代していることに不審を覚えます。さらに、王宮にはイタズラ者の義弟ロキ(トム・ヒドルストン)の巨大な黄金像が建てられ、ロキを讃える芝居まで上演されていました。ソーは、アスガルドを現在、統治しているオーディンが偽物であり、その正体はロキであることを見抜きます。
怒ったソーはロキを連れて、ロキが父王を追放したというミッドガルド(つまり地球)のニューヨークにやってきます。しかし、ロキがオーディンを預けた老人ホームはすでに閉鎖されて解体されており、さらにその時、ロキが何者かの魔術により姿を消します。
ソーは、ロキが取り落とした名刺に書かれている市内の住所を訪ねます。そこにいたのは地球を守る大魔術師ドクター・ストレンジ(ベネディクト・カンバーバッチ)で、ロキも危険人物として彼が捕獲したのでした。ストレンジは、アスガルド人が地球に訪れることが、いつも地球世界の混乱の元となっていることを憂慮していましたが、ソーがロキとオーディンを連れてアスガルドに立ち去ると約束したので、オーディンを保護しているノルウェーに、2人を転送します。
ノルウェーで再会したオーディンは、2人にラグナロクが近いこと、それは避けられない運命であることを告げると共に、自らの死が近いことも教えます。そして、オーディンが死ねば、その力で抑え込んでいたソーの姉、オーディンの最初の子であり、最強の死の女神であるヘラ(ケイト・ブランシェット)が復活すること、彼女がアスガルドに帰還する時、ラグナロクが始まるだろうことを語ると、光となって姿を消し、この世を去っていきました。
まもなくヘラが姿を現し、ソーとロキに襲いかかりますが、その強さは噂以上のもの。圧倒的な力の差にねじ伏せられ、ソーの必殺の鉄槌ムジョルニアも、赤子の手をひねるようにヘラに破壊されてしまいます。2人はビフレストに逃れようとしますが、ヘラも彼らの後を追い、途中でソーとロキを別の宇宙に放り出してしまいます。
アスガルドに現れたヘラは、その場にいたソーの忠臣ヴォルスタッグ(レイ・スティーヴンソン)とファンドラル(ザッカリー・レヴィ)を殺害し、最後まで決死の抵抗をしたホーガン(浅野忠信)と王宮の近衛兵も皆殺しにします。死体の山を見てスカージはヘラに恭順し、ヘラは彼に「処刑人」の名を与えて臣従を許します。ヘラはアスガルド王宮を支配すると、かつてオーディンに阻止された全宇宙征服に乗り出そうとしますが、外征のためにビフレストを起動するには、ヘイムダルが持ち出した大剣がなければなりません。ヘラはヘイムダルと、彼の下に集まる反抗勢力を捜し出すようスカージに命じます。
そのころ、時空を跳び越えたソーは、未知の惑星サカールに墜落します。そこはあらゆる次元の宇宙から廃棄物が集まる辺境のごみ溜め場です。ここでソーは、かつてアスガルド王家の精鋭騎士だったものの、今では落ちぶれて飲んだくれの賞金稼ぎになっている女戦士ヴァルキリー(テッサ・トンプソン)に捕らえられ、サカールを支配する独裁者グランドマスター(ジェフ・ゴールドブラム)に売り飛ばされてしまいます。グランドマスターは闘技場で戦う強い奴隷戦士を求めており、ソーもその一人とされてしまいました。
すでに少し前からこの星に来ていたロキは、グランドマスターに上手に取り入り、客分扱いの好待遇を得ていましたが、奴隷になったソーを全く助けようとしません。
闘技場の試合で、当地で最強のチャンピオン戦士と戦って勝利すれば、解放されると知ったソー。しかし、ソーの対戦相手として闘技場に現れたのは、2年前に姿を消してから行方不明となっていたハルクその人でした…。

 ということで、一癖もふた癖もありそうなキャラクターが次々に登場し、超豪華キャストが総出演、という感じです。女王様をやったらこの人、ケイト・ブランシェットの怪演ぶりは、なるほど、こんな人が出てきては誰もかなわない、と思わせるだけの存在感でして、ひょっとして、「ロード・オブ・ザ・リング」で彼女が演じたエルフの女王ガラドリエルが、フロドから力の指輪を受け取っていたら、きっとこうなっただろう、と思わせます。黒髪の彼女は珍しいですが、これもよく似合っていますね。
奇矯なキャラクターをやらせたらこの人しかいない、というのがジェフ・ゴールドブラム。こちらも、こんなおかしな役柄は彼しかこなせないだろうな、と思われます。そして、久々にこの世界に戻ってきたトム・ヒドルストンも大活躍です。このロキという役柄も、そもそも北欧神話でもイタズラと裏切りの神であり、描きようによっては全く嫌な奴になりかねず、何をやってもどこか憎めない感じのトムがやらなかったら、こんなに人気は出なかっただろうと思われます。
 一方、このマーベル・シリーズでも徐々に「リストラ」が進行しておりまして、これまでソーの恋人だったジェーン(前作までナタリー・ポートマン)は破局を迎えて別々の道を行くことになったそうです。アンソニー・ホプキンスもオーディンの死で本シリーズから卒業し、またソーの戦友3人も今作であっさりと命を落として退場。数少ない日本からの出演者、浅野忠信さんの登場もこれまで、ということのようです。
 今回のソーは、何よりも、今まで無敵の神であり、王位継承者であった彼がすべてを失い、頼りにしていた武器も、恋人も、仲間たちも、父さえも喪失して、一方でこれまで自分が知らなかった姉が現れ、弟には裏切られ、家族の絆も見失い、ゼロからの「自分探し」をする旅の物語でもあります。ヘラは彼に「弟よ、あなたは何の神なんだっけ? 教えて頂戴」と嘲ります。オーディンは「お前はハンマーの神なのか? お前の真の力はそんなものではない」と諭します。厳しい戦いの中で、一回りも二回りも成長していく彼の姿は本作で最大の見ものですが、それを見守るワイティティ監督の視線には、常に温かいものを感じます。
 これはマーベル全シリーズの中でも映画として、非常に上質の面白い一作になっていると思います。今後の展開にも期待されますが、私はワイティティ監督の今後の飛躍にも大いに期待したいところです。


2017年11月04日(土)
映画「ブレードランナー 2049」Blade Runner 2049を見ました。「ラ・ラ・ランド」のライアン・ゴズリングが主演、「メッセージ」のドゥニ・ヴィルヌーヴ監督がメガホンを執り、制作総指揮に1982年の「ブレードランナー」を監督したリドリー・スコット、という布陣。さらに、82年版で主演したハリソン・フォードがデッカード役で帰ってくるという豪華さで、話題性は充分。
しかし制作費150億円超えという巨費を投じた費用対効果から言うと、今のところ二百数十億円の興行収入で、売り上げ的には一応、合格点ではあるけれども、必ずしも好成績とはいえない状況のようです。
批評家筋は絶賛し、実際に見た一般の観客の感想も、アメリカでも日本でも上々です。にもかかわらず、やはり3時間近い長尺と、難解とかマニアックとかいう先入観が仇になったのか、まあ少なくとも「大衆受けする映画」としての商業的成功はしていない模様です。しかし考えてみると、82年の「ブレードランナー」も、「エイリアン」のリドリー・スコットと、「スター・ウォーズ」「インディ・ジョーンズ」で人気絶頂だったハリソン・フォードの名前をもってしても、公開時点では決して売れ筋のヒット作品ではなかったことを思い出すべきでしょう。
本作は今時、珍しい硬派なSF作品であり、そういう意味では、時代に逆行したかのような硬派な作風を連発しているヴィルヌーヴ監督と、本作の底流に流れるDNAを作ったリドリー・スコットという2人のアーティストが作り上げた世界観が、お子様向けのポップコーン映画になりようがないわけであります。
そして、そのまた原形を作ったのが20世紀アメリカSF文学界を代表するフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』Do Androids Dream of Electric Sheep ? であることを思うとき、その感覚は一層、深まるものです。生前のディックは文壇で高い評価を受け続けていながら、どうしてもカルト的な作風と見なされて、ベストセラーには全く恵まれない作家でした。しかし、彼の亡くなる直前にこの小説が「ブレードランナー」というタイトルで映画化決定し、さらに彼の死後、「トータル・リコール」や「マイノリティー・リポート」など10を超える映画が彼の原作を基に制作されました。時代の先を行きすぎていた天才、ということなのでしょうか。
ディックの原作小説には、すでに「人間そっくりのアンドロイド」である「ネクサス6型」と、それを「解任」(つまり殺害)する処刑人というアイデアがありました。いかにも人間味のある、見た目にも人間にしか思えないアンドロイド。判別検査(フォークト―カンプフ検査)を実施し、彼らを殺し回る、非情な人間。その対比から、「一体、人間というのは何なのか?」という疑問が提示されています。また、自然の生態系は全て滅び、植民惑星で奴隷として働くアンドロイドたちはもちろん、動植物もすべてが人造の産物に置き換えられ、羊のような生き物も「電気羊」となっているような世界を描き出しました。この殺伐とした驚くべき世界観をディックが描いたのが、今から半世紀も前の1968年(昭和43年)である、というのは驚くべき事です。
1982年のリドリー・スコット監督の作品では、タイレル社が量産したレプリカント(人造人間)「ネクサス6型」が登場しました。それらはあまりにも人間そっくりであり、瞬く間に学習して人間らしい感情や自我を身に付けるために、4年しか生きられない寿命制限が設けられていました。植民惑星での奴隷労働から脱走してくるレプリカントを殺害する任務を遂行していた捜査官=ブレードランナーのデッカード(フォード)は、タイレル社が製造した新型レプリカントのレイチェル(ショーン・ヤング)と禁断の恋に落ち、一緒に逃亡するところでエンディングを迎えたのでした。
 その劇中の設定は2019年でした。まもなく現実の日付が追いつきそうな2017年に、その続編が登場したわけです。現実の世界では人造人間は実現していませんが、AI(人工知能)が支配する荒廃したディストピアの未来図、という程度なら、もはやカルトSFの特異な設定とは見なされず、主流派の科学者たちもおおっぴらに語るようになっています。ようやく時代がフィリップ・K・ディックの想像力に追い付いてきた現代。新作が描くのは、あれから30年後、2049年のロサンゼルスです…。

 2049年のロサンゼルス。地球の環境は一層、荒廃し、地球温暖化で海面が上昇。すでに富裕層は植民惑星に移住してしまいました。残っているのは、スラムに住まい合成食品で生きながらえる貧民ばかりです。
 2020年に長寿命の「ネクサス8型」レプリカントが起こした反乱により、レプリカント禁止法が成立し、その製造そのものが違法とされ、タイレル社は倒産してしまいました。逃亡したネクサス8型は2022年に大爆発を引き起こして電磁パルスをまき散らし、「大停電」により自分たちにまつわる電子情報をすべて消し去りました。こうして、多くのネクサス8型が身を潜める中、レプリカントは公式には人々の目の前から姿を消しました。
 しかしその後、昆虫を原料としたプロテインで人類の食糧危機を解決した天才科学者ネアンダー・ウォレス(ジャレッド・レト)は、倒産したタイレル社の技術を引き継ぎ、より安全で人類に絶対服従するように作られた新型レプリカント「ネクサス9型」を発表。人類の救世主である、という自らの権威を利用してレプリカント禁止法を廃止させました。合法化されたネクサス9型を大量生産したウォレスは、これを労働に使役して、植民惑星を全宇宙に拡大するという野望を抱いています。
 ロサンゼルス警察LAPDに所属するブレードランナーのK(ゴズリング)は、自らもネクサス9型のレプリカント。人類社会に潜伏している違法な旧型であるネクサス8型を「解任する」任務に就いています。警察の同僚は彼を「人もどき」と呼んで差別し、寂しいKの日常を慰めるのはウォレス社が製造したホログラム(立体映像)タイプのAI、ジョイ(アナ・デ・アルマス)だけです。
 ある日、ウォレス社と契約して昆虫を育てる農民として働いていた旧型レプリカント、サッパー・モートン(デイブ・バウティスタ)を処刑したK。モートンの庭の木の根元に箱が埋められていることに気付いたKは、上司のジョシ警部補(ロビン・ライト)に通報。その箱の中からは、一体の女性の骨が見つかります。
 驚くべき事に、その女性は妊娠して出産した直後に亡くなった形跡があり、しかもレプリカントであったことが分かります。「レプリカントが妊娠して、出産する」という衝撃の事態にジョシは取り乱します。レプリカントが産んだ子供は、すでに「生産された製造物」とは呼べません。こうなると、人類とレプリカントの定義が一層、曖昧になることは間違いありません。ジョシはKに、生まれた子供を見つけ出して、処分、つまり暗殺することを命じます。しかしKはためらいを覚えます。「子供を殺したことはありません。レプリカントから生まれた子供は、製造物ではありません。それは魂を持っているのでは?」とKは言いますが、ジョシは社会の安定を優先して、すべてを秘密裏に葬ることを決めます。
 Kは、30年前に旧型のレプリカントを製造していたタイレル社のデータを求めて、現在のレプリカント製造企業ウォレス社を訪ねます。そこに残っていた情報は、30年前に旧型レプリカント、つまりあの遺骨となっていた女性にフォークト―カンプフ検査を行うLAPDのブレードランナー、デッカードの声でした。ウォレス社長から全幅の信頼を得ているレプリカントの秘書ラヴ(シルヴィア・フークス)は、Kがもたらした情報に内心、驚愕します。ウォレスはタイレル社がかつて実現していた幻の技術を欲していました。同社の倒産と2022年の大停電により失われた、生殖能力のあるレプリカントの製造法です。レプリカントを大量生産するためには、自然に繁殖させるのが最も効率がよい、というのが彼の結論なのです。
手がかりを求めてモートンが住んでいた家に戻ったKは、木の根に彫り込まれた日付を見つけ、衝撃を受けます。そこには「6.10.22」とありました。つまり2022年6月10日です。おそらくここに埋葬されていたレプリカントの女性が亡くなり、子供が生まれた日付です。そして、それはK自身の誕生日でもあったのです。
そればかりではなく、Kには「子供時代の記憶」がありました。もちろん、初めから完成された大人として生産されるレプリカントは、実際には子供時代がありません。しかし、疑似記憶を与えることで、心の安定を保つ…それがこの時代の長命なネクサス9型には一般的にとられている措置でした。Kの記憶に拠れば、たくさんの子供たちに追いかけられたKは、この時代には希少品とされる本物の木で出来た小さなオモチャの木馬を、子供たちに奪われないように、ある場所に隠したことがあるのです。その木馬の足の裏にも6.10.22の数字が彫り込まれていました。
Kは、ウォレス社のレプリカント向けに疑似記憶を製作しているステリン研究所の天才技術者アナ・ステリン博士(カーラ・ジュリ)と会い、自分の「記憶」を鑑定してもらいます。その結果、Kの記憶は作られた偽物ではなく、間違いなく人間の実際の記憶である、ということが判明します。
警察の古い記録を調べると、この日に生まれた双子の子供が、ロサンゼルス郊外の荒廃地にある孤児院に預けられた、という情報が出てきました。双子のうち、女の子は8歳で亡くなり、男の子は行方不明、というのです。
疑惑にかられたKはジョシ警部補に、「子供を見つけて処分した」と虚偽の報告をしますが、精神が不安定になり、署内の検査で落第して、任務から外されてしまいます。一定の時間内に任務に戻れなければ、K自身が解任されるでしょう。
Kは問題の孤児院に行き、「記憶」にあるのとそっくりの場所を見つけます。そしてそこから取り出されたのは、まさにあの「木馬」でした! Kは激しく動揺します。記憶は現実だった。それはつまり、レプリカントの女性から生まれた行方不明の男の子とは、自分なのではないか?
Kは手がかりとなる木馬を密売人のバジャー(バーカッド・アブディ)に見てもらいますが、高レベルの放射能が検知されます。このような放射能がばらまかれた土地と言えば、2022年の大爆発の直下にあった都市、かつてのラスベガスのほかにありえません。Kは廃墟と化したラスベガスに残るホテルの建物で、一人の老人に出会います。それは、30年前にレイチェルと共に逃亡したブレードランナー、デッカードでした。一方、ずっとKの動きを監視していたウォレス社のラヴは行動に出ます…。

 というような展開ですが、今時のせっかちでハイテンポな映画に慣れていると、この映画のぜいたく極まりない演出には面食らうかもしれません。本当に70年代とか80年代以前の名作映画のような作りなのです。たっぷりと時間を使い、詩的な長いセリフを、余韻を残しながら話す。お金を掛けて、可能な限りCG処理に頼らずに本物のセットを組んで撮影する。それにより醸し出される情報量の多い映像美と音響の素晴らしさは、いってみれば最高級ブランド品を思わせます。そのためにテンポは遅く、見る者はそこで生まれる間において、じっと前のシーンの意味合いと、次のシーンへの展開を考え込むことになります。ヴィルヌーヴ監督の前作「メッセージ」もそのような映画でしたが、今作ではさらなる極致を目指しているのが分かります。
 空飛ぶ車や光線銃、そして人造人間、自立的に考えて恋愛感情まで抱くAI。その一方で世界はますます荒廃し衰退し、人類の存立が揺らぐ中で、レプリカントたちはどんどん存在感を増していく世界です。SFを超えたスピリチュアル的な観点から見ても、「分娩で生まれたレプリカントは、もはや魂を持った生命なのではないか」というテーマは、重いものがあります。逆に言えば、単に人間個人の意識を、単なる記憶のデータベースのように見なして、これを電子データに移植し、永遠にコンピューターネットの中で生きる、という研究も進みますが、その単なる記憶データの集積ははたして人間の意識と呼べるのでしょうか? 本作品で重要な役回りを持つ肉体を持たない立体映像のAI、ジョイは明らかに個性と自立的な判断を持ち、主人公に対して愛情を抱いていきますが、ではこの人工知能が持っている意識は? これは確かに人間ではないでしょうが、彼女には魂はないのだろうか? 作り物と本物、という区別をつける定義は、どうなっているのか。
 デッカード自身がレプリカントなのか、そうでないのか、という問題も、今作に持ち越されています。これはディックの原作自体で、処刑人自身が人造人間なのではないか、と疑われる描写があったところから1982年を経て、ずっと尾を引いている疑問です。
 そのような思いに捕らわれると、抜け出せなくなる魅力が、このシリーズにはあります。そういう硬派なSFならではの見応えが、まことに貴重なものだといえます。オリジナルを手がけたリドリー・スコットは最近の作品まで繰り返し、この人造人間というテーマを取り上げています。彼自身が、ディックが投げかけたこの種の問いかけにとらわれているのでしょう。そして、それは私たち観客にも及んでいるのですね。
 哀愁を帯びたゴズリングが、本作の主人公にぴったりはまっています。また当初案ではデヴィッド・ボウイが演じる予定だったというウォレス役を、ジャレッド・レトが熱演しています。注目なのがレイチェルの復活シーンです。これはよく似た女優の顔に、1982年のショーン・ヤングの顔をデジタル処理で貼り付けたようです。そして、75歳になるハリソン・フォードは文句なしの名演ですが、映画が2時間を過ぎるあたりまで出てこないのは驚きでした(とはいえ、そこから最後までまだたっぷり時間がありましたが)。
 とにかく、この難しい仕事をやってのけたヴィルヌーヴ監督に敬意を表したいです。次作というものがあり得るのかどうか、分かりませんが、もし「ブレードランナー2079」という企画があるとしたら、どうなるでしょうか。見てみたい気がします。


2017年10月29日(日)
映画「猿の惑星: 聖戦記」War for the Planet of the Apesを見ました。アンディ・サーキスが猿のリーダー「シーザー」を演じるシリーズの完結編です。
本作に至る新シリーズ3作と、オリジナルの、あのチャールトン・ヘストンが主演して、あまりにも有名な自由の女神のラストシーンで世界を震撼させた「猿の惑星」以来、同名シリーズを通算すると、9作品が作られたことになります。
旧シリーズで描かれなかった最大の要素が、「猿が進化して知性が高まったのはいいとして、では、人類はどうして退化して口がきけなくなったのか」という部分でした。今回の作品で、その謎がついに明かされることになります。

 前作から2年。そして1作目の主人公ウィルが父親のために開発した認知症治療薬が変異して世界中に蔓延し、猿たちの知能を著しく高めると共に、ほとんどの人類を死滅させてから15年の歳月が流れています。
 生き残った人類との平和的共存を望んだシーザー(サーキス)でしたが、人類への憎悪から反乱を起こしたコバ(トビー・ケベル)の謀略により、抜き差しならない殺し合いへと発展。この結果、人類はますます数を減らしながら、生き残った者は以前にもまして猿たちへの容赦ない攻撃をしかけるようになり、シーザーは仲間たちと森の奥地に姿を隠します。
 しかし、冷酷な人類軍の指揮官、大佐(ウディ・ハレルソン)は執拗に彼らの行く手を追い、ついにシーザーの妻コーネリア(ジュディ・グリア)と息子ブルーアイズ(マックス・ロイド=ジョーンズ)も命を落とします。
 生前にブルーアイズが見つけた砂漠のかなたの豊かな土地に、一行は移住することにしますが、復讐心にかられたシーザーは独り後に残り、大佐を殺そうと決意します。側近のモーリス(カリン・コノヴァル)は、個人的復讐に燃えるシーザーを「まるでコバのようだ」と諫めますが、結局そのモーリスと、ロケット(テリー・ノタリー)、ルカ(マイケル・アダムスウェイト)も加わり、4頭は大佐の居場所を追い求めます。
 途中で、口がきけない人類の少女を見つけた一行は、置いておくことも出来ず、彼女にノヴァ(アミア・ミラー)と名付け、連れて行くことにします。さらに彼らは、知能が高まり独学で口をきけるようになった新種の猿人、バッド・エイプ(スティーヴ・ザーン)と出合い、衝撃を受けます。バッド・エイプは大佐の基地を知っている、と言い、一行を導きます。
 彼らは、人類の軍隊が自分たちの仲間を処刑したと思われる痕跡を発見します。瀕死の兵士はノヴァと同様、口がきけず、シーザーは人類に何か異変が起きていることを知ります。シーザーたちは、ついに大佐の拠点を発見しますが、驚いたことに、新天地に向かったはずの仲間の猿たちは皆、シーザーが離れている間に大佐の軍隊に捕らえられ、檻に入れられていることが分かります。さらにシーザーも捕らえられてしまいますが、彼はそこで大佐から、人類たちが直面している状況、そして地球が「猿の惑星」になろうとしている驚愕の事実を聞くことになります…。
 
 ということで、あの「猿の惑星」の世界がとうとう到来するわけです。猿はますます知能が高くなる、しかし人類はどんどん数を減らし、ついに口をきけなくなって文明や文化を喪失する。その不可逆的な運命を知ってしまうと、狂信的な人物に思われた大佐にも哀れさを覚えてしまうものです。
 とにかくアンディ・サーキスの熱演がものすごいです。「ロード・オブ・ザ・リング」でのゴラム役でモーション・キャプチャーの第一人者と呼ばれるようになって、ついにシーザーという当たり役を手にした彼も、本作でひとつの達成点を示したように思われます。演技力と技術の融合がこれほど高いレベルで成し遂げられたことは驚異です。批評家筋からは、サーキスに特撮賞ではなくて、男優賞のオスカーを与えるべきだ、という声が出ているそうです。実際、サーキスはこのシリーズにただの一度も生身の姿で「出演」していないのですが、明らかにここにあるのは「名優の演技」そのものです。正当な評価をされるように望みたいですね。
 大佐役のウディ・ハレルソンは出演映画のたびに随分と印象が変わる演技派ですが、「グランド・イリュージョン」でマジシャン役を演じていたときの軽妙な彼とは全く別人のようです。狂気の中に漂う悲しみ、高級軍人、指揮官としてのカリスマ性と孤独、そして人類という種族の業の深さ、というところまで演じきっているように見えます。
 最初から最後まで、かなり長時間なのですが、一瞬の緩みもなく引っ張る脚本も見事ですね。人類文明の滅亡を描く終末的なお話で、下手を打てば単なる陰気くさいお話になってしまいますが、シーザー一行の探索の旅は昔の西部劇映画か「ロード・オブ・ザ・リング」のようであり、息詰まるようなストーリーにある種の解放感を与えています。檻の中から猿たちが穴を掘って脱出する顛末は戦争映画「大脱走」のようでもあり、大佐の軍隊の描き方や終盤の戦闘シーンは「地獄の黙示録」のようでもあり、強制労働させられる猿たちの待遇改善を求めてシーザーが反抗するシーンは「戦場にかける橋」のようでもあります。ちなみに「戦場にかける橋」は、「猿の惑星」と同じく、戦時中に日本軍の捕虜となった経験があるフランスの作家ピエール・ブールの小説が原作であることは皆様もご存じのとおりです。このことから、原作の「猿」には白人から見た日本兵のイメージが投影されているのではないか、という説があります。いずれにしても、このような、かつての名作映画へのオマージュを感じさせる工夫の数々が、本作を非常に奥の深いものにしているように思われます。
 そして何より、人間の少女の名前がノヴァであること、生き延びるシーザーの次男の名がコーネリアスであることなどは、明らかにオリジナルの第一作「猿の惑星」を想起させるアイデアですね。もちろん、そのまま直接的につながっていく伏線、とは限りませんが、これらの人物、あるいはその子孫が、やがてチャールトン・ヘストン演じるテイラー大佐の乗った宇宙船と遭遇する、のかもしれません。
 シリーズの謎の環が閉じて、雄大な日没を見ているような感じを受けます。このまま終わってしまうのか、それとも、シーザー亡き後の世界をまだ描くことはあるのか。あるいは途中の時代を描くスピンオフ、ということはないのだろうか。
 ちょっと、そういう期待もしてしまいますね。非常に感動的な、シリーズ完結にふさわしい作品でした。


2017年10月28日(土)
シャーリーズ・セロンが東西冷戦時代の秘密諜報員を演じた映画「アトミック・ブロンド」Atomic Blondeを見ました。監督は「ジョン・ウィック」のデヴィッド・リーチ。原作として、 アンソニー・ジョンストンとサム・ハートによるコミック『The Coldest City』があるそうです。
 「マッドマックス」最新作で頭を剃り上げて不屈の女戦士フュリオサ大隊長を演じ、アクション・スターとしても名声を得たセロンですが、本作のような本格的な武闘シーンをこなすことは、今までなかったと思います。ハリウッドでも最高の美女、という名をほしいままにしてきたうえ、これで最強の美女という称号も得て、それはもう無敵状態といえますね。徹頭徹尾、彼女の魅力を観賞するのが正しい作品だといえますが、本当にすさまじいバイオレンス・シーンに戦慄すら覚えます。東ベルリンの廃屋で繰り広げられる7分半にわたるノーカット一発撮影のリアルな格闘は、まことに鬼気迫るものがあります。
 なんでも同時期に「ジョン・ウィック2」の役作りをしていたキアヌ・リーブスを相手にセロンがスパークリングした、という話もあります。いっそのこと、次回作は競演してもらいたいものです。それほど激しい格闘シーンが延々と続きます。が、それだけでなくて、もっと驚かされることに、本作には百合シーン(つまり女性の同性愛)がかなり濃密に描かれます。セロンのお相手を務めるのは、「キングスマン」に出てからハリウッドで瞬く間に人気者となったフランスの女優ソフィア・ブテラ。こちらも元々が有名なダンサーで身体能力抜群の美女ですが、この超ド級美女の百合対決が見ものです。こういうのが好きな人は見逃せません。なぜ唐突に同性愛描写が、と思う人もいるかもしれませんが、「スパイは情報を得るためなら手段を選ばず、ためらわないで何でもやる」という一面を描きたかったのだ、といいます。
 体当たり演技に挑む彼女たちの引き立て役として、男優陣が配置されているわけですが、そこはしっかり芸達者な人たちが、手堅く演技しています。敵なのか味方なのか、最後までヒロインを翻弄する何を考えているのか分からない諜報員に、X-menのプロフェッサーX役ですっかり有名人になったジェームズ・マカヴォイ、またヒロインの無責任な上司役に、癖のある役をやったら当代一の名優トビー・ジョーンズ、という具合で、彼らの好演も非常に素晴らしいです。
 このお話は、1989年11月の10日間ほどの間にベルリンで起きた出来事です。この年、ポーランドとハンガリーで相次いで共産政権が崩壊。11月9日に東西ベルリンを分かっていた壁が破壊され、12月には米ソ首脳会談で冷戦終結が合意されました。それから1年もたたない翌年10月には東西ドイツが統一し、91年12月にはソ連も解体してしまいます。まさに激動の時代でした。今現在、40歳代以上の方ならリアルタイムの鮮明な記憶を持っている方が多いでしょう。
 この映画では、全編でうるさいぐらいに80年代の音楽がかかりますが、特に当時のドイツと言えばネーナの「ロックバルーンは99」ですね。その他、クラッシュとかデペッシュ・モードとか、あのあたりで子供時代から青春真っ盛り、といった世代には、ラジオやMTVで聞いた思い出のある曲が並び、印象的に使用されています。まさにその世代であるシャーリーズ・セロン本人もすごく懐かしい、と言っているそうです。
 本作の冒頭は、当時のレーガン米大統領がゴルバチョフ・ソ連書記長に「冷戦を止めましょう」と呼び掛ける映像で始まりますが、そこですかさず「本作は、その冷戦終結の物語ではない」というメッセージがかぶさります。
 ところがです、最後の最後まで見ていると、実はやっぱり「その物語」だったということになるのですが…。

1989年11月。東ドイツの政治体制は動揺し、市民のデモでベルリンの壁の崩壊も目前に迫っていました。そんな中、ベルリンで活動していた英国情報部MI6のエージェント、ガスコイン(サム・ハーグレイブ)は、ソ連秘密警察KGBの殺し屋バクチン(ヨハンネス・ヨハンネソン)に殺害され、東ドイツの秘密警察シュタージが収集した極秘資料、すなわち「世界中で潜入活動しているあらゆる国のスパイの名簿リスト」を仕込んだ時計を奪われてしまいます。しかしバクチンはKGBの上官ヴレモヴィチ(ローランド・モラー)にそのリストを提出せず、闇市場で売って大もうけしようと姿をくらましてしまいます。
このリストが世間に知れ渡れば、各国の疑心暗鬼や国民世論の混乱から、冷戦がさらに40年も続くほど世界情勢が一変するかもしれません。事態を憂慮したMI6の長官C(ジェームズ・フォークナー)は、主任のグレイ(トビー・ジョーンズ)に命じて、英国情報部で最強の女性スパイ、ロレーン・ブロートン(セロン)を呼び出します。ロレーンは西ベルリンに赴き、MI6のベルリン支局長パーシヴァル(ジェームズ・マカヴォイ)と合流しますが、彼女の赴任は初めからKGBに知られており、いきなり危険な目に遭います。実はロレーンはCからリストの奪取以外にも密命を受けていました。MI6に所属しながらKGBに情報を流している二重スパイ「サッチェル」の存在を確認し、その人物を確定したうえで、秘密裏に抹殺することになっていたのです。そこでロレーンは信用できないパーシヴァルと距離を置きつつ、独自の情報収集に当たります。その中で、フランス情報部の新米エージェント、デルフィーヌ(ブテラ)と知り合ったロレーンは、彼女の情報から、ますますパーシヴァルの怪しげな行動に不信感を覚えます。さらにロレーンは、デルフィーヌと仕事を越えた親密な関係となり、同性ながら激しい恋に落ちます。
ここで、英国情報部と協力関係にある米中央情報部CIAの幹部カーツフェルド(ジョン・グッドマン)がロレーンに接触してきます。例のリストが表に出れば、世界中の情報部員が命を落とすことになる、もちろん君も私も、と彼は警告し、CIAもロレーンの行動を監視していることをほのめかします。
その頃、パーシヴァルはシュタージの幹部スパイグラス(エディ・マーサン)と接触し、彼を西側に亡命させようと提案します。というのも、スパイグラスは例のリストに載っている諜報員全員の名前を暗記している、というのです。独自のルートで現地の協力者メルケル(ビル・スカルスガルド)や、表向きは高級時計店カール・ブヘラに勤める工作員「時計屋」(ティル・シュヴァイガー)の手引きで東ベルリンに潜入したロレーンも、結局、パーシヴァルの計画に協力してスパイグラスの亡命を手助けすることにします。
しかし、今回も情報はKGBに筒抜けになっており、ヴレモヴィチの率いる暗殺者たちが襲ってきて、ロレーンは絶体絶命のピンチに陥ります。彼女はスパイグラスと共に、西ベルリンに無事、脱出出来るのでしょうか。命がけの死闘が始まります。
そんな中で、パーシヴァルはまた不審な行動を取っていました。彼はリストを持っているバクチンと密かに接触していたのです…。

というようなことで、お話はこの後、あっと驚きの結末までノンストップで突き進んでいきます。
非情な内容なのにどこかにユーモアやペーソスがあった「ジョン・ウィック」と比べても、かなりストイックなスパイ映画です。殺伐とした作品であることは間違いありません。もしこれが男性スパイのアクションなら、全く陰気くさい作品になっていたことでしょう。やはりシャーリーズ・セロンあっての企画、といっていい一作ですが、とにかく一瞬も目を離せないほど、すさまじい描写の連続です。
そこへまた、美女2人の大胆な絡み…。なんとも見せ場を心得た映画です。爆音BGMとともに、大スクリーンで見たい作品ですね。
カール・F・ブヘラは実際に高級時計を提供して協力しており、また当時の東独の名車トラバントも500台も集められて登場しています。スーツを着たMI6の幹部の上着は、あのバブル期を思い出させるゴージ(縫い目)の低い大きな襟で、CIAのカーツフェルドはアメリカのエリート階級らしくボタンダウン・シャツを着ているなど、芸の細かい大道具、小道具、衣装も相まって、全力で1989年を再現しているのが興味深いです。言うまでもなく、東ドイツ軍の制服はカッコいいです。ナチス時代とほとんど変化していないので有名ですが、マカヴォイが制服を着ているシーンだけ異常にカッコいいのが笑えます!
スマホもパソコンもインターネットもない最後のアナログ時代。しかしそれ以外のアイテムはなんでも出そろっていて、時代劇と言うほど古くなく、しかし現代とも異なる独特の空気感がそこにはありました。冷戦期のスパイたちも、あの時代だからこそ存在できたといえます。
あの頃、自分もバブル期の街をさまよっていたんだな、と、世代的にもそんなことを思った一作でした。


2017年10月27日(金)
 先週21日に東京家政大で行った辻元よしふみ、玲子の講演「軍服 その歴史とイラストレーション」の会場での写真を服飾文化学会より提供していただきましたので、掲載します。台風接近の中、たくさんの御来場、改めましてありがとうございました。また、こういう機会があればぜひやりたいですね。

2017年10月24日(火)
 21日の私どもの講演会「軍服 その歴史とイラストレーション」につきまして、来場された甲冑師の佐藤誠孝様がTwitterでご紹介くださいました。引用させていただきますと「21日に十条にある東京家政大学にて軍服の歴史について研究者の辻元よしふみ氏と玲子氏夫妻の講演に行ってきた。軍服は個々の時代についての研究はあるが通史としてはほとんど無く、歴史の流れとともにダイナミックに変化する軍服を噺家並みのトークで面白く聴かせてもらった。雨であったが満員だった」。佐藤様、まことにありがとうございました。

2017年10月22日(日)
 皆様、昨日は東京家政大学で講演会「軍服 その歴史とイラストレーション」を行いました。取り急ぎ、雨の中、多数のご来場をいただきありがとうございました。天候が心配でしたが、講義室が人でいっぱいで、本当に満席状態になって、おいでになった皆様には厚く御礼申し上げる次第です。取り急ぎご報告でございました。私どもは会場で写真を撮ることができなかったのでとりあえず、講演終了後に池袋で、玲子の父と3人で記念撮影したものを掲げます。
 ありがとうございました。

2017年10月19日(木)
 改めまして宣伝です。
 10月21日土曜日に、東京家政大学(東京・十条)で、服飾文化学会の研究例会が開かれます。講演するのは私たち「辻元よしふみ」と「辻元玲子」。ご興味のある方はぜひおいでくださいませ。この日のために、初公開の描き下ろしイラストや資料も製作しました。
 ◆服飾文化学会 第18回研究例会
「軍服 その歴史とイラストレーション」
講 師 :辻元よしふみ氏(服飾史・軍装史研究家)
   :辻元 玲子氏(歴史考証復元画家)
日 時: 平成29年10月21日(土)13:30〜16:05
会 場: 東京家政大学 120-3B講義室(120周年記念館 3階)
参加費無料:学会員以外の参加歓迎

【辻元よしふみ】ユニフォーモロジーUniformology(軍装史学/制服学)とは何か? をテーマに、この研究の社会的貢献や、これまでの歴史復元画家と軍装史学者を紹介。「軍服はいつからあるのか」「近代的な軍服の登場とその背景」「なぜ初期の軍服はあんなに派手だったのか」など、各時代の軍装の特徴と変遷を解説します。

【辻元玲子】ヒストリカルイラストの社会的重要性、製作過程、一般絵画との描き方の違いについて。また、シュメール兵、グスタフU世アドルフ、スペンサージャケット等を例に、軍装史と紳士服飾史、婦人服飾史の密接な関わり合いについて、全て描きおろしのイラストエッセイで具体的に詳しく解説します。


2017年10月07日(土)
清秋の候、時下ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。

さて、このほど、辻元よしふみと辻元玲子は、東京家政大学(東京・十条)で講演会を行うことになりました。同封チラシの通りでして、10月21日土曜日に開催される服飾文化学会の第18回研究例会として、僭越ながら私どもが発表する次第でございます。
同学会の会員以外の方も参加歓迎、ということになっており、参加費は無料です。

ただ、このチラシでは時間帯が若干、間違っております。正しくは、下のような日程・時程となっております。

日 時: 平成29年10月21日(土)13:30〜16:05
会 場: 東京家政大学 120-3B講義室(120周年記念館 3階)1
講演題目:「軍服 その歴史とイラストレーション」
講 師 :辻元よしふみ氏(服飾史・軍装史研究家)
:辻元 玲子氏(歴史考証復元画家)

以上、ご足労ではございますが、もしご興味、お時間がおありの際には、ぜひ東京家政大学までおいでくださいませ。宜しく御願い申し上げます。



2017年10月01日(日)
 10月21日土曜日に、東京家政大学(東京・十条)で、服飾文化学会の研究例会が開かれます。講演するのは、なんと「辻元よしふみ氏」と「辻元玲子氏」のお二人! つまり私たちですが…。ご興味のある方はぜひ。
 ◆服飾文化学会 第18回研究例会
「軍服 その歴史とイラストレーション」
講 師 :辻元よしふみ氏(服飾史・軍装史研究家)
:辻元 玲子氏(歴史考証復元画家)
日 時: 平成29年10月21日(土)13:30〜16:05
会 場: 東京家政大学 120-3D講義室(120周年記念館 3階)
参加費無料:学会員以外の参加歓迎

【辻元よしふみ】ユニフォーモロジーUniformology(軍装史学/制服学)とは何か? をテーマに、この研究の社会的貢献や、これまでの歴史復元画家と軍装史学者を紹介。「軍服はいつからあるのか」「近代的な軍服の登場とその背景」「なぜ初期の軍服はあんなに派手だったのか」など、各時代の軍装の特徴と変遷を解説します。

【辻元玲子】ヒストリカルイラストの社会的重要性、製作過程、一般絵画との描き方の違いについて。また、シュメール兵、グスタフU世アドルフ、スペンサージャケット等を例に、軍装史と紳士服飾史、婦人服飾史の密接な関わり合いについて、全て描きおろしのイラストエッセイで具体的に詳しく解説します。


2017年9月26日(火)
 銀座に新しいテーラーが出来ました。
 「ザ・クロークルーム」というのがそれで、ギンザ・シックスのすぐそばにあります。このクロークルームというのは、元々オーストラリアのブランドですが、日本には初上陸。非常に感度の高い紳士服、レディースを扱っており、日本では基本的にビスポーク(注文服)のお店となっています。
 このお店、かつて「サローネ・オンダータ」を支えた島田氏と林氏が立ち上げた新店です。まずはお気軽に足を運んでみてください、とのこと。
 「ザ・クロークルーム」104-0061 東京都中央区銀座7-10-5 ランディック第3銀座ビル5階 TEL 03-6263-9976 MAP https://goo.gl/HtEp9N
 月曜日定休。12:00〜19:00(予約制)ということで、まずはお電話を。


2017年9月22日(金)
 映画「エイリアン:コヴェナント」Alien: Covenantを見ました。「エイリアン」シリーズの生みの親、リドリー・スコット監督によるシリーズの集大成的な作品です。
 コヴェナントとは「契約」の意味です。聖書で説かれる、神とユダヤの民との「契約」がその下敷きにあります。神との契約によって預言者モーゼに十戒が授けられ、その石板を入れた「契約の箱」(Ark of the Covenant=「インディ・ジョーンズ」に出てきた、あの失われた「アーク」のこと)を携えた人々は、神との「約束の地」を目指し遠い旅に出たわけです。これにちなみ本作では、人類にとっての約束の地を目指す植民宇宙船の名になっています。スコット監督はモーゼの出エジプトを描く史劇「エクソダス:神と王」を2014年に製作していますが、これも偶然ではなく、同監督にとって重要なモチーフなのでしょう。
 シリーズの第一作「エイリアン」が公開されたのは1979年。私が中学1年生のときでした。今よりもテレビで映画のコマーシャルがよく流れる時代でしたので、「宇宙では、あなたの悲鳴は誰にも聞こえない」というキャッチコピーと共に映し出される映像の気持ち悪さに辟易した記憶があります。その後、しばらくたって、この作品を初めてテレビで見たときも、悪夢に出そうな、トラウマになりそうな印象を持ちました。
 何よりも気味が悪かったのは、巨匠ギーガーがデザインした化け物ですが、それも意図的に、正体が分からないように映されているのですね。それがとにかく得体のしれない恐怖感を醸し出していました。
 この作品は、ちょうど「スター・ウォーズ」や「未知との遭遇」でSFが映画ジャンルとして確立した直後に登場し、ホラー的な展開の「SFスリラー」という新分野を切り開いたと言えます。この一作で、まだ無名だったスコット監督と、映画史に残るタフなヒロイン、リプリーを演じたシガニー・ウィーバーが有名になり、以後の多くの作品に影響を及ぼしました。たとえば、密室的環境からの逃避行という図式は、今、上映中のクリストファー・ノーラン監督「ダンケルク」にまで影響を与えているほどです。
 しかし、あれから40年余りでエイリアンはあまりに有名になりすぎました。一作目から20年近く続いたシリーズも97年の「エイリアン4」でついに完結したとされ、それからでもさらに20年がたっています。2012年に前作「プロメテウス」が公開された際には、エイリアン・シリーズに登場する悪徳企業ウェイランド・ユタニ社の前身会社、ウェイランド社が出てくることなどから、どう考えても同シリーズの前日譚のように見えるものの、監督も制作サイドも明確にシリーズの一部であるとは公言しませんでしたし、題名にも「エイリアン」の言葉は入っていませんでした。
 しかし、「プロメテウス」の続編である本作は、タイトルからしてエイリアン・シリーズの正統な一作であることを公式に明示しており、これにより、逆説的に「プロメテウス」も正統な前日譚であったことがはっきりした、という流れになっています。
 そういう経緯があり、前作は明らかにエイリアンだとしか思えないものの、神話的なタイトル通りにどこかシリーズのノリとは異なる深遠さというか、哲学的な香りが強い作風でした。しかし、今回の作品は明らかにそれが、バイオレンス・アクション映画であると共に、SFスリラーの開祖でもある本シリーズらしい展開に舵を切っています。要するに、より娯楽作品らしく、第一作に近い作風に回帰しています。これはもちろん意図してそのように製作されたものでしょう。
 というのも、本作の位置づけは、前作「プロメテウス」の時代設定(2089〜94年)の10年後、そして第一作「エイリアン」の時代設定である2124年からは20年前にあたる2104年、ということになっています。つまり、この映画から20年後に、あのノストロモ号の悲劇的な航海が起きるわけです。なぜ、エイリアンという化け物が生まれたのか、というのが「プロメテウス」と本作が担う最も重要なテーマになるわけですが、その副産物として、そもそも地球人類と言うものも、なぜ生まれたのか、という話にまで及んだわけです。
 「プロメテウス」では、考古学者エリザベス・ショウ博士(ノオミ・ラパス)が古代の遺跡の発掘成果を基に、地球人類を導いてきた神=異星人「エンジニア」の星を目指す旅を企図し、それを巨大企業ウェイランド社の総帥、ピーター・ウェイランド(ガイ・ピアース)が後押しして、宇宙船プロメテウス号が旅立つ話が描かれました。結局、その星でエンジニアたちは危険な生態兵器「エイリアン」のプロトタイプを開発しており、エリザベスと、アンドロイドのデヴィッド(マイケル・ファスベンダー)を残して探検隊は全滅。エンジニアの宇宙船を奪った2人が、彼らの母星に向けて出発するシーンで幕切れとなりました。
 よって、続編である本作では、異星人の母星に着いた2人のその後が描かれるのだろう、と誰しもが予想したのですが、それがちょっと違っていたのです。

 プロメテウス号が出発する以前から映画は始まります。ピーター・ウェイランド(ピアース)は自分が製作した人造人間のプロトタイプ(ファスベンダー)を起動させます。それは、自分自身でダビデの彫刻にちなんでデヴィッドと名乗ります。ウェイランドが「私がお前を作り出したのだ」と言うと、デヴィッドは「では、あなた方を作り出したのは誰ですか」と問います。その質問の中に、危険な兆候を感じ取ったウェイランドは不機嫌になり、デヴィッドに絶対的な服従を求めて威圧的な態度をとるようになります…。
 それからかなり後、プロメテウス号が行方不明になってから10年後の2104年。ウェイランド社の新型植民船コヴェナント号が、惑星オリガエ6を目指して宇宙を進んでいました。ブランソン船長(ジェームズ・フランコ)率いるこの船は、15人のクルーと、入植者2000人、人間の胚胎1140個を乗せた人類初の大規模植民を目指しています。クルーと入植者は冬眠状態で7年以上の長い航海を過ごし、その間は疲れを知らぬ人工知能「マザー」と、新型のアンドロイド、ウォルター(ファスベンダーの2役)が船を管理しています。しかし、予期せぬトラブルで船が損傷し、クルーが冬眠から強制的に蘇生される中、不幸な事故でブランソン船長は亡くなってしまいます。船長の妻で、惑星改造の専門家ダニエルズ(キャサリン・ウォーターストン)は半狂乱となりますが、船長に昇格した副長オラム(ビリー・クラダップ)は部下に冷徹な態度をとり、乗組員の間に不協和音が生じます。
 そんな中、これまで探査されたことのない星域から謎の信号が届きます。それはどうも誰かの歌声のようで、しかも、よく知られたジョン・デンバーの名曲「カントリー・ロードTake Me Home, Country Roads(故郷に帰りたい)」の一節のように聞こえるのです。調べると、その発信地の星は、海と陸地のある地球型惑星で、オリガエ6より植民に適しており、しかも距離的にずっと近いことが分かります。船長オラムは急きょ、この星に進路を変えることを決断しますが、ダニエルズは突然の方針変更を無謀な冒険として反対します。しかし決定は覆らず、コヴェナント号はその惑星に向かいます。
 地上に降り立った一行は、その星に豊かな植物が生い茂っている反面、鳥も虫もその他の動物も全くいないことに気付きます。さらに不思議なことに、地球の麦が繁殖しており、一体、誰がこれを植えたのか、疑問は尽きません。やがて彼らは、異星人の宇宙船の廃墟らしきものを見つけ、10年前に行方不明となったプロメテウス号のエリザベス・ショウ博士(ラパス)が身に付けていたものを発見。さらに、ホログラム映像でエリザベスらしき人物が「カントリー・ロード」を歌う情景を見て、これが発信源であることを確認します。
 しかし、この星の恐ろしさはここから徐々に明らかになっていきます。黒い粉を吸い込んだ隊員が不調を訴え、その身体を破ってエイリアンが出現。混乱の中、死傷者が続出して地上着陸船も破壊されてしまいます。妻のカリン(カルメン・イジョゴ)が死んだことで落胆し、指揮官としての自信を失うオラムをダニエルズは励ましますが、エイリアンに包囲されて探査隊は全滅の危機に瀕します。
 そこで、思いがけず一発の信号弾が発射されて、驚いたエイリアンは退散していきます。一行を救ったのは、プロメテウス号のクルーだったアンドロイド、デヴィッドでした…。

 ということで、エイリアンの星に足を踏み入れて恐怖に陥る、というパターンはまさに第一作「エイリアン」の再現で、この後、話を引っ張るのが、女性主人公ダニエルズである点も、非常によく似ています。
 大変、よくできた映画で、シリーズ集大成として恥じない出来栄えである、ということを先に記しておきつつ、率直な感想も述べてみます。
 どうも、あの79年の一作目の衝撃度とどうしても比較して見てしまうのですが、私たちはエイリアンというあの怪物を、今やよく知り過ぎてしまっているのですね。一作目で味わった、得体の知れなさが、もうここにはないのです。これは仕方がありません。人体に寄生して腹を食い破る誕生の仕方、ヨダレを垂らす特徴的な二重構造の口、細長い頭、悪魔のような尻尾、強い酸性の体液…、何しろ40年も愛されてきたキャラクターですので、今や、ゴジラとかガメラのような懐かしのモンスターなのです。どうしても「ああ、懐かしいな」と思ってしまう。それで、どうしても一作目のときの衝撃は蘇ってこない。ちょっとそういうもどかしい感想は否めないものがありました。本作を初めてのエイリアン映画として見る若い世代の方なら、全く違った感想になるのでしょうが。
 一作目から一貫して描かれる人造人間への親愛と不信感というテーマ。人間そっくりだが人間でない、という存在は、「ブレードランナー」なども制作したスコット監督がこだわりを持つテーマなのですが、一作目のアッシュ(イアン・ホルム)は、非常に人間らしく振る舞い、途中までロボットであることが全く分かりません。それがまた最後に頭部だけになって笑う不気味さを増幅させました。しかし本作に出てくる2体(デヴィッドとウォルター)は、初めからアンドロイドであることが分かっている。テーマとしては深化しているのですが、意外性はそこにはないわけです。このへんも一作目との大きな相違点ですね。
 なにかそういった要素もあって、残酷シーンは散々見せられながら、意外にも淡々とした、落ち着いた一作のように感じられたのは、私の世代的なものなのでしょうか。今時は残酷な映画も、ものすごい映像の刺激的な映画も次から次に作られていることもあり、そういう点では案外に、本シリーズの売り物だったショックがありませんでした。また、「エイリアン」第一作に続く前日譚、と言いながら、エンドシーンからそのまま、20年後のノストロモ号に直接つながるような話でもなく、これはさらに続編が作られるのでしょうか。もしこの作品で「完結」というと、ちょっと物足りない感じも受けます。
 「ファンタスティック・ビースト」でヒロインを演じたウォーターストンの、芯は強いのだけれど、どこか哀愁漂うヒロイン像は、リプリーのような豪快なヒロインとは異なる新魅な力を感じます。それから、同じく「ファンタスティック…」でアメリカ魔法議会の議長を演じていたカルメン・イジョゴが出ていたのも興味深いです。なんといっても本作の中心人物はアンドロイド役のファスベンダーで、難しい2役の撮影を見事にこなしています。
 早い段階で退場してしまうジェームズ・フランコはカメオ出演扱いですが、意外に出番は多く、一方、前作のヒロイン、ノオミ・ラパス演じるエリザベスは、展開上は重要な人物ですが、シーンとしては、ほとんど出番なし。私は前作でのラパスの熱演ぶりに、彼女が「新シリーズのリプリー」なのか、と注目していたので、この点はちょっと残念です。
 近年も意欲的に新作を発表しているスコット監督。もう一本、本作とノストロモ号をつなぐ作品でシリーズを完結してくれないだろうか、と私は密かに期待しております。


2017年9月14日(木)
 クリストファー・ノーラン監督の話題の映画「ダンケルク」DUNKIRKを見ました。さすがに鬼才の作品、戦争映画というジャンルに新たな可能性を拓いた傑作が登場しました。
 この作品は、1940年5月、第二次大戦の初期を舞台にしております。フランス・ダンケルクの海岸に取り残された英仏軍の兵士40万人。ドイツ軍が迫る中、彼らがいかに英国に生還したか…「史上最大の撤退作戦」が描き出されます。これまで、このダンケルクの戦いをテーマとした作品には1958年の「激戦ダンケルク」や、1964年の「ダンケルク」などがあります。後者は主演がジャン=ポール・ベルモンドでした。1969年の「空軍大戦略」も冒頭部分でダンケルクの撤退から話を受けて、その後の英独航空戦が描かれました。2007年の「つぐない」(キーラ・ナイトレイ主演)でも登場しました。しかし、この戦いを真正面からとらえた新作映画が、21世紀になって登場したのは、それ自体が驚きでした。
通常の戦争映画なら、陸・海・空の戦いを立体的に、時間軸の流れに沿って配置して描くものでしょう。しかしノーラン監督は、非常に思い切った手法を使います。地上戦と、海の戦いと、そして飛行機による空中戦ではどうしてもスピード感が違います。ノーラン監督は、この三つの様相を違う時間軸に置いて、地上戦は1週間、海の戦いは1日、空戦は1時間の出来事として描き出します。しかし地上での1週間と、時速500キロで移動する空中での1時間は確かに同じ濃度で、息詰まるような死闘が描かれるのです。そして巧妙な脚本に導かれて、地上の兵士の物語と、海を渡り兵士たちを救出に向かった民間船の船長の物語、そして英国空軍のパイロットの物語が、映画の終盤で一点に交錯していく。素晴らしい描き方です。こういう手があったか、という感じです。今後、この作品はいろいろな後続の映画に影響を与えそうに思います。
 さらに、本作で大きな特徴。それは「敵がほとんど登場しない」ということです。本作は戦争の初期の史実を基にしているので、イギリス軍、フランス軍と、ドイツ軍が戦っています。真珠湾攻撃は翌年末のずっと先のことですので、当然、日本もアメリカも参戦していない時期です。よって、英軍兵士たちを中心に描く本作で「敵」といえばドイツ軍なのですが、これが奇妙なほどにはっきり描かれない。いいえ、恐ろしい強敵の存在はこれでもか、というほどに暗示されています。しかし、個人個人としての「ドイツ兵」はほとんど出てきません。最後のシーンになって、不時着した英国のパイロットを捕えに来るドイツ兵の姿がほんの申し訳に映し出され、その特徴的なヘルメットからドイツ兵だな、と分かるのですが、そこでも故意にぼやけた映し方で、ドイツ兵の姿がはっきり登場しない。ドイツ軍の戦闘機や爆撃機、そしてどこからともなく飛来する銃弾、砲弾、さらに魚雷。こういう形で敵が描かれる。もちろんこれらは故意に採用されている手法です。本作は、制限時間が迫る中、絶体絶命の密室的な環境から脱出を図るタイプのスリラー映画(たとえば近年で言えばメイズ・ランナー)に驚くほど似ており、ノーラン監督も「いわゆる戦争映画ではない」と明言しています。つまり、本当の敵はむしろ「時間」であり、ドイツ軍は迷宮に配置されたトラップのような存在として示されている。これがしかし、非常に効果的なのは間違いありません。本作に影響を与えた先行作品の中に「エイリアン」が挙げられているのもよく理解できるところです。ドイツ兵は、どこからともなく襲いかかる恐怖のエイリアンのような存在として描かれているわけです。
 先ほども書いたように、ダンケルクの戦いは1940年の5月26日から6月4日にかけて行われたもので、まだ日本もアメリカも参戦していない時期の戦いです。当事国である英国やフランス、ドイツではよく知られていますが、英国人であるノーラン監督が製作会社である米ワーナー社に企画を売り込んだときにも「ダンケルクって何? よく知らないんだけど」という反応だったそうです。もちろん日本ではもっと知られていないでしょう。
 しかし、第二次大戦の流れを大きく変えたのが、このダンケルクの戦いです。破竹の勢いで進撃するナチス・ドイツ軍が瞬く間に全欧州を席巻し、このまま英国まで攻め込むのか、というところ、この戦いの結果、英仏軍の兵士35万人がフランスからの脱出に成功したことで、英国本土の守備は固められ、さらにちょうど4年後の1944年6月6日、ノルマンディーへの連合軍の上陸作戦につながっていくわけです。つまり、この「史上最大の撤退」ダンケルクが、4年後の「史上最大の上陸作戦」の布石となった。非常に重要な歴史の転換点だったのです。訓練され実戦を経験した兵士35万人、というのがどれだけ貴重で意味があるかと言えば、たとえば現在の日本の陸上自衛隊の規模が15万人であることを考えても理解できます。今の陸自隊員の倍ほどもの人数の兵士が生還できた、というのは大変な意味があったわけです。
 この映画の前提として、なぜか5月24日にドイツの地上軍が「止まった」という事実があり、これは第二次大戦の戦史の中でも大きな謎とされています。ここでドイツ軍が止まらなければ、40万人の全員が死ぬか、捕虜となったことでしょう。ドイツの装甲師団もここで一息入れる必要があった、というのが最大の理由でしょうが、ドイツ空軍の最高司令官ヘルマン・ゲーリング元帥が大言壮語し、空軍の力だけで敵を撃滅する、と高言したのも要因だったとされます。それで、本作でもドイツ兵がほとんど出てこない代わりに、ドイツ空軍機が多数、登場して執拗に攻撃してきます。
 実は本作を見た後、私にとって最も印象的だったのは、映像もさることながら「音」でした。ものすごい音響です。ドイツ軍の銃撃の重い音。ギャング映画などでの軽々しい音とは違います。耳に刺さるようなモーゼル小銃やMG34の銃声。それから、作中でも語られますが、英軍戦闘機スピットファイアのロールスロイス社製マーリン・エンジンの音と、ドイツ軍のメッサーシュミットBf109戦闘機のダイムラーベンツ・エンジンの音の相違、英軍戦闘機の7・7ミリ機銃の発射音と、ドイツ軍のハインケルHe111爆撃機が積んでいる20ミリ機関砲の重々しい音の違い…など、とにかく音が生々しいのです。
何よりすさまじいのが、ドイツ軍のユンカースJu87急降下爆撃機「スツーカ」が攻撃時に鳴らす「キーン」というサイレンの音。あのキューン、という音は連合軍の兵士を恐怖させ、トラウマになった者も多いと聞きますが、なるほど、この映画で聞くと、いかに恐ろしい攻撃であったかが体感できます。
 そしてこれは、音の再現のリアルさにもつながる話ですが、本作の撮影のために、実物の今でも飛行可能なスピットファイア3機、それから戦後もスペイン空軍で使用されているメッサーシュミット系の後継機(エンジンの形状が異なりますが、遠目では戦時中のBf109にそっくり)もそろえて、実機を飛ばして撮影しています。さらに大戦当時の民間船(その中には、本当に80年近く前のダンケルクの撤退に参加した船もあったそうです)や病院船、掃海艇、さらにフランス海軍の記念艦として保存されていた戦時中の本物の駆逐艦まで借り出されて、撮影に参加しています。「どうやってあんなリアルな船を撮影したんだろう、セットにしてはすごすぎるし、CGにしても生々しすぎるし…」と驚嘆したのですが、すべて実物で再現しているのですね、それはすごいはずです。
 何よりすごいのが、撮影はほとんど、実際にダンケルクの海岸で行い、エキストラもほとんどがダンケルクの市民だそうです。実際に史実があった場所、というのは当然、出演者たちに大きな影響を与えたそうで、それがこの作品のなんとも底知れない迫真力を生んでいるのは間違いありません。
 本当にクリストファー・ノーラン監督、恐るべし、です。すごい監督です。

 1940年5月末。突然、ドイツ軍が進撃を停止しました。英国兵士トミー(フィン・ホワイトヘッド)は自分の部隊が全滅し、命からがらダンケルクの海岸に到達。そこには40万人もの敗残兵がひしめいており、英国への撤退は遅々として進まず、トミーを失望させます。輸送指揮官のボルトン海軍中佐(ケネス・ブラナー)は、陸軍の撤退指揮官ウィナント大佐(ジェイムズ・ダーシー)と協議し、ドイツ軍が再び動き出す前に、少しでも多くの兵士を生還させる決意を固めますが、状況は絶望的でした。
トミーは海岸で、死体を埋めていた兵士ギブソン(アナイリン・バーナード)と出会いますが、彼はなぜか一言もしゃべりません。負傷兵が優先的に脱出できることを知ったトミーとギブソンは、担架を運びながらなんとか病院船にたどり着きますが、船は沈んでしまいます。さらにその船から逃れた兵士アレックス(ハリー・スタイルズ)を助けたトミーたちは、アレックスの部隊に紛れ込んで別の掃海艇に乗ることに成功。これでダンケルクから逃げ出せた、と思ったのも束の間、またもドイツ潜水艦の魚雷が襲ってきて、船は沈没。3人はダンケルクの海岸に戻ることになりますが…。
 ダンケルクで40万人もの兵士が取り残され、軍艦だけではとても輸送できないため、民間船が海軍に徴用されることになりました。ムーンストーン号のドーソン船長(マーク・ライランス)も、息子ピーター(トム・グリン=カーニー)、その友人のジョージ(バリー・コーガン)と共に船出します。途中、沈没寸前の船から一人の英国兵士(キリアン・マーフィー)を助け出しますが、彼は名前も名乗らず、船がダンケルクに向かうと知ると激昂して「英国へ引き返せ」と要求します。そんな中、ドイツ軍爆撃機が飛来し、船に危険が迫ります…。
 ダンケルクの撤退作戦を援護するべく、スピットファイアの3機編隊が英国の基地を出撃しました。しかし緒戦で隊長機が撃墜され、3番機のコリンズ(ジャック・ロウデン)もメッサーシュミットとの交戦で海に着水します。一人残されたファリア(トム・ハーディー)は燃料計が敵機の銃弾で破壊され、あとどれだけ飛べるのか分からないまま、英国の船団に襲いかかるハインケル爆撃機に向かっていきますが…。

 ホワイトヘッドとグリン=カーニーは、演劇歴はあるものの、ほぼ無名の新人です。一方アレックス役のスタイルズは、世界的な人気アイドルグループ「ワン・ダイレクション」のメンバーです。しかしノーラン監督は、スタイルズも選考の中で非常に良かったから起用したまでで、話題性での抜擢ではないといいます。ケネス・ブラナーとマーク・ライランスがさすがの存在感です。二代目マッドマックスのトム・ハーディーも、ほとんど表情の演技に終始する難しいパイロット役を好演しています。
 それから注目なのは、スピットファイア編隊の隊長の「声」で出演しているのが、あの名優マイケル・ケインです。ノンクレジットなのですが、特徴のある声ですぐわかります。1969年の「空軍大戦略」において、キャンフィールド少佐役でスピットファイア部隊を率いた彼が、ここで声だけではありますが英国空軍に「復帰」したわけです。こういう旧作へのオマージュも嬉しい配慮ですね。


2017年9月03日(日)
原田眞人監督の映画「関ヶ原」を見ました。原作は司馬遼太郎が1964年から3年がかりで書いた壮大なスケールの大長編小説。映画化は無理、と言われ続けてきた題材です。何しろ登場人物がやたらに多い。史実を見ても、徳川家康が豊臣秀吉の亡き後、何年も掛けて諸大名を味方に付け力を蓄え、反対派の石田三成に挙兵をさせて関ヶ原の戦いでたたきつぶす、そして天下の覇権を握り幕府を開く・・・考えただけで面倒くさそうな話です。たくさんの大名や周辺の女性、庶民なども含め、とてつもない群像劇にならざるを得ません。
あくまで小説であり、エンターテイメントですので、その後の研究で史実としては疑問符が付くような逸話も多いのですが、別にドキュメンタリーではないので、そういう点でいろいろ文句を付けるのは野暮と私は思います。この原作を下敷きにする映像作品も、そういう意味で、あくまでも司馬作品の映像化であることを前提とするわけですが、それにしても巨大な作品なので、一筋縄ではいきません。
しかし今まで、一度だけこの映像化に成功した例がありました。おそらく現在、50歳代以上の方ならご記憶にあると思いますが、1981年にTBSが制作した超大型時代劇「関ヶ原」です。今でも時折、TBS系の放送局で再放送することもあり、最近になってブルーレイ版で再販されましたので、若い世代でもご存じの方もいらっしゃるでしょう。この作品が高い評価を受けたのは、まずテレビの特性として長尺番組でも放送出来る、ということで、このドラマは3夜に分けて、なんと6時間半ドラマとして放映されたわけです。時間がたっぷり取れれば、この壮大な物語も丁寧に描くことが出来ます。
それから、すごかったのが出演者です。今もってテレビ界では「奇跡のキャスティング」といわれているそうです。ざっと挙げただけでも徳川家康=森繁久弥、石田三成=加藤剛、島左近=三船敏郎、大谷刑部=高橋幸治、本多正信=三國連太郎、鳥居元忠=芦田伸介、福島正則=丹波哲郎、加藤清正=藤岡弘、細川忠興=竹脇無我、堀尾忠氏=角野卓造、山内一豊=千秋実、毛利輝元=金田龍之介、宇喜多秀家=三浦友和、直江兼続=細川俊之、小早川秀秋=国広富之、島津義弘=大友柳太朗、前田利家=辰巳柳太郎、豊臣秀吉=宇野重吉。女優陣では北政所=杉村春子、淀殿=三田佳子、細川ガラシャ=栗原小巻、初芽=松坂慶子。さらにチョイ役にもかかわらず笠智衆、藤原鎌足、木の実ナナなども出ており、ナレーションは石坂浩二。もう当時の映画界の大御所級、主演級スターが勢ぞろいしています。音楽は山本直純で、テーマ曲を演奏したのが、当時、水曜ロードショーのテーマ曲で有名だった世界的トランペッターのニニ・ロッソ。これがまた名曲で名演奏でした。
はっきり言って、これを見てしまうと「これ以上の映像化なんて無理でしょう」と思ってしまいます。私もそうでした。しかし、映画化となると、いろいろ話が違ってきます。「ロード・オブ・ザ・リング」みたいに初めから3部作6時間、という映画化もできなくはないですが、それはビジネスとしてあまりにリスクが高い。短くカットするとして、編集がものすごく大変になりそうです。
それから、TBSドラマの最大の弱点は、戦闘シーンの迫力がない、ということでした。この点では、本格的な「映画の絵」で見てみたい、と思った人も多いのです。
やはりテレビ画面の制約のせいもあったのでしょう、実際にはそのへんの映画以上の大人数で合戦シーンを撮ったそうですが、なんか物足りなかったのは事実なのです。ただ、あの合戦の実相を考えると、両軍合わせて20万の大軍と言っても、実態は各大名の軍の寄せ集めであり、統一した指揮などとれず、まともな戦術があったとも思えません。あちこちに点在した部隊が適当に遭遇戦を展開し、実際に戦闘に参加したのは半数にも満たない、ということだったようで、実はあの日、合戦場にいたとしても、ろくに戦闘もなく、なんだかよく分からないで終わった人も少なくない。そういう、この合戦の、戦闘としてのいい加減さを描く意味では、これもまた正しい映像的な描写だったのかもしれない。
そもそも関ヶ原の戦いというのは、実際には戦闘の前に、政治戦や外交戦のレベルで決着が付いていた。意外に戦闘そのものはつまらないものだった。司馬遼太郎のいちばん言いたいことはそういうことだったとも思われるのです。
ではあるのですが、これだけ進化している映像技術の世界で、大スクリーンで戦国合戦の本格再現をする監督はいないのか、というのは確かにあったわけです。黒澤明監督の亡き後、大スケールの戦国映画を作る監督はめっきりいなくなりました。ここで果敢にチャレンジした原田眞人監督の心意気はすごいと思います。原田氏はかつて、俳優としてトム・クルーズの「ラスト・サムライ」に出たことがあり、ハリウッドがこれだけやるのなら、日本人が合戦シーンを描かなければ、と強く思ったそうです。
今作を見ますと、私にはTBS版で描かれていた部分は外し、描けなかった部分を描く、という方針があったように思われてなりません。たとえば、TBS版で一番の見所だったのは、いかにも策謀家という感じの森繁さんの家康が、細川俊之さんの直江兼続による挑発「直江状」に激怒したふりをして豊臣家恩顧の諸大名を率い、会津の上杉家征伐に向かう。その前には、伏見城に置いていく芦田伸介さんが扮する鳥居元忠と涙の別れをする。というのも、わざと伏見城を無防備にして三成の挙兵を誘発するための策なので、元忠には城を枕に討ち死にしてもらう必要があるからですね。死んでくれ、という意味です。そして、栃木県の小山まで来たところで三成の挙兵を聞く、いわゆる「小山評定」のシーン。実は真の決戦はここであった、という名場面です。家康はあくまで上杉討伐軍の司令官であって、ついてきている諸侯は、三成を相手とした合戦で家康に従う義務はない。よって、この段階で諸大名が味方しなければ、家康はもうおしまいというわけです。ここのシーンで、丹波哲郎さんの福島正則が、あの押しの強い大声で「わしゃあ、一途に徳川殿にお味方申す!」と叫ぶと、たちまち会議の流れは決まる。そこで、直前に堀尾忠氏から聞いたゴマすりのヒントをちゃっかりいただいた千秋実さんの山内一豊が「拙者は居城の掛川城をそっくり内府に献上いたします」と言い、家康を感動させるシーンが続き、石坂浩二さんの涼しいナレーションで「この一言で、山内一豊は合戦の後、土佐一国を与えられる大出世をした」とかぶさる。まことに見事な展開です。
ところが、上記のようなおいしいシーンを、今回の映画は全く使っていない(!)。それはもう、故意に外しているとしか思えないわけであります。
今回の映画では、とにかく出演者がものすごいスピードでセリフをしゃべりまくります。ほぼ聞き取り不可能です。これはリアリティー追求の立場から意図的にそういう演出をしているそうです。そして、ほかにもたくさんあるドラマ的においしいシーン、三成が佐和山城に蟄居した後、大谷刑部が「昔、茶会があった。わしの飲んだ茶碗を皆、嫌うた。しかし三成だけは違った…。引き返せ、引き返すのだ! お互い目の見えぬ者同士のよしみじゃ、この命、くれてやる。受け取れ」と叫ぶ感動的な場面も、細川忠興の妻ガラシャがキリシタンゆえに自殺できず、家老の手にかかって死ぬシーンも、家康の使者・村越茂助(TBS版では藤木悠)が清州城で福島正則らを奮起させる名シーンも全部カット。だから大筋が分からない人には、何が何だかよく分からないかもしれません。しかしおそらく、そのへんを制作サイドは恐れていない。また、キャストとして役所広司さん以外はものすごい大物を起用していない。むしろ、実力はあるけれど、あまり色が付いていない役者さんを配置しているようです。このへん、TBSのものとは全く違う「関ヶ原」を作らなければならない、という方針を感じます。
原作小説から見てかなり大胆に設定が変わっているところもあります。原作では藤堂高虎が三成のもとに放った女性間者であった架空の人物・初芽。本作では、秀吉の命によって一族皆殺しになった関白・秀次の側室の護衛をする忍者として登場します。裏切り者として有名な小早川秀秋の描き方も、最近の学説などの影響もあると思いますが、新しいものになっていますし、家康を支持していたとされる北政所が三成の娘を養女として保護していた事実(これは史実で、この娘は後に弘前藩津軽家に嫁いでいきます)など、新しい要素も盛り込まれます。福島正則と黒田長政が水牛兜と一の谷形兜を交換する、などというマニアックな逸話が登場したりします。三成が側近の島左近をいかに口説き落としたか、という原作にないシーンも出てきます。登場する女性たちもかなりアレンジされていて、特に阿茶局なんてTBSでは京塚昌子さんがゆったりと演じていたのですが、今回は完全に忍びの者、家康の護衛役として登場します。
とにかく映像はすごい。スピード感がすごい。戦闘シーンがリアル。この点では今回の映画化は確かに意味があった、と思われます。長槍で突き合うのではなく、実際は槍を上から振って、相手の頭めがけてたたきあう、たたいて、たたいて、ねじ伏せるのが戦国の合戦の実相だと言います。そして接近したら殴り合い、小刀で首を取り合う。要するにルールのない喧嘩に近い。整然として指揮官の命令一下、部隊が連携して戦う近代軍とは全く異なる、雑然として荒っぽい戦国の戦がリアルに活写されているのが本作です。
姫路城や東本願寺など現存する桃山時代の遺構で撮影されたシーンも実に豪華です。セットではどうしても出ない重厚感がしっかり出ています。また、原作者の司馬遼太郎が子供時代を回想するシーンで、三成が秀吉と初めて出会った滋賀県の天寧寺が出てきます。TBS版でも本作でも描かれた、三成が鷹狩中の秀吉に茶を献じる有名な逸話の舞台ですが、注目されたのが、司馬の子供時代という場面。ここで、昭五式の軍服を着た日本陸軍の将校が登場するのです。あんなワンシーンでもきっちり時代考証した人物を出す、行き届いた映画作りの姿勢にはいたく感嘆しました。

太閤・豊臣秀吉(滝藤賢一)は、愛妾の淀殿が実子の秀頼を生むと、甥の関白秀次が邪魔になり、1595年にこれを切腹させます。さらに、その一族がすべて処刑される京都・三条河原の刑場で、主人を守れず絶望的な戦いをする忍びの者・初芽(有村架純)を目にした秀吉の側近、石田三成(岡田准一)は、彼女を自分の忍びとして取り立てます。さらに、処刑を苦々しい表情で見ていた筒井家の元侍大将で高名な浪人・島左近(平岳大)を見かけた三成は、これを口説き落として自分の右腕とします。秀吉は間もなく世を去り、天下は再び乱れる。そのとき力を貸してほしいのだ、と。
その頃、豊臣政権で最大の実力者、内大臣・徳川家康(役所)は、自分の扱いに不満を持つ豊臣家の一族、小早川秀秋(東出昌大)に接近し、味方に取り込むと共に、三成を憎むようにし向けます。
1598年、秀吉が逝去すると、家康は大きな影響力を持つ秀吉の妻・北政所(キムラ緑子)に接近し、徐々に秀吉子飼いの大名たちを味方に付けつつ、彼らと三成との間の溝が深まるように画策していきます。
いつしか、三成と惹かれ合うようになっていた初芽は、任務の途中で旧知の伊賀者・赤耳(中嶋しゅう)に襲われて行方不明となり、三成は心を痛めます。
家康に匹敵する実力者、前田利家(西岡徳馬)が目を光らせている間はそれでも天下は平穏でしたが、1599年に利家が亡くなるや、三成を憎む福島正則(音尾琢真)や加藤清正(松角洋平)ら武断派の大名たちが動き始めます。彼らに命を狙われた三成は家康の仲裁を得て奉行職を辞し、佐和山城に蟄居。家康はついに事実上、豊臣家の実権を握ります。しかしこの間に上杉家の家老・直江兼続(松山ケンイチ)と協議した三成は、家康に上杉征伐に向かわせ、その隙に挙兵して、上杉勢と三成の組織した西軍とで家康を挟み撃ちにする計略を練ります。病身の大谷刑部(大場泰正)は、正義の人ではあるが、まっすぐすぎる気性で人望のない三成を見かね、その味方をすることにします。1600年6月、上杉征伐に家康が出陣すると、総大将に毛利輝元、副将に宇喜多秀家ら大大名を据え、西軍を旗揚げした三成ですが、細川ガラシャの死により諸大名の家族を人質に取る策に失敗。そして一方、三成の挙兵を予期していた家康は、諸侯を味方に付け東軍を編成すると西に向かって進軍します。決戦の地は、関ヶ原。こうして1600年9月15日、日本の未来を左右する戦いが幕を開けますが・・・。

なんといっても役所さんの熱演がすごいです。ワンシーン、すごい太鼓腹が出てきて驚かされますが、あれはCG処理だとか。もともと大河ドラマの信長役で有名になった役所さんですが、老年期の家康役が似合う年齢になったのですね。岡田さんは自ら馬を乗りこなし、生真面目な三成の雰囲気がよく出ていますが、どうしても黒田如水官兵衛に見えてしまう(笑)。実際に、映画には登場しないけれど、官兵衛の方は関ヶ原の際に九州で大暴れしており、小説には登場します。秀吉を演じた滝藤さんの尾張なまりがあまりに見事です。本当に愛知県のご出身だとか。晩年の秀吉のイヤ〜な感じをよく出していました。
ところで、この7月に、本作中で重要な役「赤耳」を演じた中嶋しゅうさんが舞台で急逝されました。近年、急速に注目が集まっていた役者さんですが、残念です。ぜひ、中嶋さんの名演にも注目していただきたいと思います。


2017年9月02日(土)
「ワンダーウーマン」Wonder Womanを見ました。全米では6月に公開し、すでに興行収入800億円を超える大ヒット作品です。とにかく評判がよい本作ですが、コミックものの娯楽作品と侮るなかれ。非常にハードな戦争映画そのものでして、現実にあった壮絶な第1次大戦を舞台にして、そこにたまたまワンダーウーマンという架空の人物が入り込んできた、という史実ファンタジーという見方でいいと思います。よって、いわゆるコミック然とした雰囲気は微塵もないのが素晴らしい。
こういう作品が生まれた理由の一つが、いまハリウッドで最高の女性監督であるパティ・ジェンキンスがメガホンを執ったことにあるのは間違いありません。「モンスター」でシャーリーズ・セロンにアカデミー賞をもたらした同監督は、決して声高にフェミニズム的な主張を盛り込んではいませんが、しかし、まだまだ女性の権利が抑制されていた1910年代の英国(たとえば議会に女性が立ち入ることも、発言することも許されなかった、という描写が出てきます)を舞台に選んだことは、異世界からやってきたワンダーウーマンの個性を際立たせることに成功していて、巧妙です。本来、原作のワンダーウーマンは1941年、第2次大戦下で生まれたスーパーヒロインで、最初に相手にした敵は当然、ナチス・ドイツ軍だったのですが、本作がその前の第1次大戦をテーマとしたのも正解だったと思います。ナチス相手の作品はすでにたくさんあり、あのキャプテン・アメリカとも被ってきます。これが第1次大戦となると、時代背景にしても、コスチュームにしても兵器にしても、観客からすると一種の目新しさがあるのではないでしょうか。
本作は、なかなか第1次大戦映画としてみても秀逸でして、この時代を取り上げた作品としては、古典的な「西部戦線異状なし」とか、近年ですとスピルバーグ作品の「戦火の馬」などいくつかありますが、なかなか最新の映像技術を駆使して同大戦を再現している映画はありません。塹壕戦の悲惨な状況や、戦傷者の痛々しい姿、当時の最新兵器、たとえばドイツ軍のエーリヒ・タウベ戦闘機とか、マクデブルク級以後のクラスの軽巡洋艦、マキシム機関銃などなど、いかにも第1次大戦を思わせるアイテムが大量に登場します。
当時のドイツ軍の軍装もかなり正確で、将校と兵隊の制服の生地のクオリティーの差までしっかり見て取れます。連合軍側のスパイという設定の主人公(クリス・パイン)が敵のドイツ軍に潜入するシーンで、ドイツ軍パイロットの姿のときはエースという設定でプール・ル・メリート勲章をぶら下げて騎兵軍服を着ていたり、普通の軍服を着ているときはいわゆるヴァッフェンロック軍服をまとっていたり、と非常に芸が細かい。将校用のシルムミュッツェ(ツバ付き制帽)は上部にドイツ帝国、下部にプロイセン王国(もしくはその他の領邦国)を示すコカルド(円形章)を付け、下士官兵は同じ仕様だがツバのないミュッツェ(クレッチヒェン)を被っている、などしっかり時代考証しています。
今作の悪役はナチスではないので、それに代わるような人物として、実在のドイツ帝国陸軍・参謀本部次長(首席兵站総監)エーリヒ・ルーデンドルフ大将が登場します。ルーデンドルフの姿は、ちょっと軍服の襟の形状が第1次大戦期のものらしくなく、第2次大戦風なのと、将官用の襟章が第2次大戦期の「元帥用」らしいものを着けているのが減点ポイントですが(笑)なかなか雰囲気が出ています。襟元にプール・ル・メリート勲章と大十字鉄十字勲章、さらに黒鷲勲章の星章と、ホーエンツォレルン王室勲章らしきものの星章を帯びており、常装で礼装用のベルトを締めているのはご愛嬌ですが、実際にそういう例もあるのでまあいいでしょう。
しかしまあ、この映画でのヒンデンブルク元帥(参謀総長)とルーデンドルフ大将の描き方は、ちょっと問題が・・・。歴史に詳しい人、特にドイツ人が見たらどう思うのだろう、とはちょっと思いました。ルーデンドルフといえばやはり知将という印象。この映画に出てくるような粗暴な体力系武闘派というのとは違う感じがします。気に入らない部下を射殺するシーンまでありましたが、マフィアや蛮族じゃないのだから、ドイツ軍でそんな人殺しをしたら、いかに将軍だろうが参謀次長だろうが、即座に憲兵に逮捕されるのではないでしょうか。それに、2人とも戦後まで元気で活躍してくれないとその後のナチス政権が・・・おっと、このへんはネタバレなのでもう言いませんが、まあ基本的には娯楽作品の悪役ですからしょうがないのでしょうね。もっとも「史実のルーデンドルフ将軍」だとはそもそも断言していないので、パラレルワールドの同将軍ということなのでしょう。ただ、全体的に、やはりナチス・ドイツならともかく、ドイツ帝国軍をあんなに悪の軍団のように描いている点には、違和感があったのは事実です。
そういう点を除けば、第1次大戦映画としてシリアス作品から娯楽作品まで含めて最高レベルの映像表現になっていると思います。ヒーロー・アクションに全く興味がない方でも、戦史や軍装に興味がある方は必見の作品となっていると感じました。

時は現代。パリのルーブル美術館に「ウェイン財団」の車が到着します。財団の使者は、ここにいる美女ダイアナ(ガル・ガドット)に一枚の古い写真を渡します。それはバッドマンことブルース・ウェインから贈られた物で、第1次大戦中に撮影された乾板写真でした。そこに写っている若き日の自分と、すでに亡き仲間たちの姿を見て、ダイアナは物思いにふけっていきます・・・。
話は超古代に遡ります。世界を支配した神々の王ゼウスは、自分に仕える人間たちを創造します。人間へのゼウスの寵愛が厚いことを妬んだゼウスの息子、軍神アレスは人類に悪を吹き込み、堕落させます。それを見たゼウスは愛と勇気に満ちた女性だけの種族アマゾネスを創造し、戦乱に明け暮れる人類を救います。怒ったアレスは神々を戦争に巻き込み、アマゾン族を奴隷としてしまいます。やがて、アマゾンの女王ヒッポリタ(コニー・ニールセン)は妹のアンティオペ将軍(ロビン・ライト)と共に反乱軍を率いてアマゾンと人類を解放、アレスはゼウスに倒されます。しかしゼウスもアレスとの闘いで力尽き、地中海の人知れぬ海域にゼミッシラ島を作ると、アマゾンたちをそこに住まわせて世を去ります。それ以来、アマゾンたちは人類の歴史とかかわることなく、何千年もセミッシラ島に閉じこもってきました。ヒッポリタの手元には、ゼウスから授かった島でたった一人の子供ダイアナが残されました。
ヒッポリタはかつての戦乱の記憶を憎み、ダイアナが戦士となることを禁じていましたが、ダイアナは戦闘に興味を抱き、叔母であるアンティオペ将軍に密かに武術を習います。初めはそれに反対したヒッポリタですが、軍神アレスの復活を予期して、ダイアナを強い戦士に育てる方針に転じます。まもなくダイアナは、アンティオペもしのぐアマゾネス第一の最強戦士に成長します。
そんなある日、一機の戦闘機がセミッシラ島の沿海に墜落します。溺れかけていた操縦士を助けたダイアナは、初めて見る男性に動揺します。さらに、彼を追ってドイツ軍の巡洋艦が出現し、島の秘密を破ってドイツ兵が大挙、上陸してきます。いかに精強とはいえ、初めて見る銃や大砲などの近代兵器にアマゾン軍は苦戦し、激しい戦闘の中でアマゾン戦士もたくさん命を落としました。その中に叔母であり恩師でもあるアンティオペもいました。ダイアナは最初にやってきたパイロット、アメリカ陸軍航空隊出身で、現在は英国情報部で働く諜報員スティーヴ・トレバー大尉(クリス・パイン)から、外の世界では世界大戦が勃発していることを知り、軍神アレスが復活したことを確信します。スティーヴはドイツ軍のルーデンドルフ総監(ダニー・ヒューストン)が推進している最強の毒ガス開発計画を阻止するためにトルコの研究施設に忍び込み、天才女性科学者ドクター・マル(エレナ・アナヤ)の開発ノートを奪い取って飛行機で逃げる途中だったと言います。ダイアナは、自らが島を出てアレスを倒し、世界を平和に導こうと決意します。
初めは反対したヒッポリタも、ダイアナが外の世界に旅立つことを受け入れ、見送ってくれますが、「人間の世界はお前が救うに値しない」と言います。その言葉の意味はダイアナには分かりませんでしたが、深く心に刻まれました。
スティーヴの手引きでロンドンにやってきたダイアナですが、アマゾンの島で大らかに育った彼女に、女性差別の厳しい時代の英国は驚くべき事ばかり。議会に乗り込んでも女性に発言権はなく、軍の司令官たちも無責任で、あきれることばかりでした。しかし議会の大立者でスティーヴの上司であるサー・パトリック・モーガン(デヴィッド・シューリス)は、密かにスティーヴとダイアナを援助することにし、ベルギー戦線からドイツ軍の司令部に潜入し、ルーデンドルフとマル博士の計画を止める作戦を承認します。
スティーヴがこの作戦のために集めた面々は、モロッコ出身の詐欺師サミーア(サイード・クグマウイ)、飲んだくれのスコットランド出身の狙撃兵チャーリー(ユエン・ブレムナー)、アメリカ先住民で、故郷を捨てて欧州で武器取引をしている酋長(ユージン・ブレイブロック)と一癖ある者ばかり。最前線に達したダイアナは、そこで機関銃と大砲が血しぶきの嵐を巻き起こす凄惨な塹壕戦の現実を目にします。ルーデンドルフこそがアレス本人だと確信するダイアナと、あくまでも彼の毒ガス計画阻止を目的とするスティーヴの思惑は必ずしも一致しませんが、はたして彼らはこの大戦争を終結に導くことが出来るのでしょうか。

ということで、ダイアナ役のガル・ガドットはミス・イスラエルになったこともある極め付きの美人。まさにワンダーウーマンになるべくしてなった人で本当に魅力的です。そして本作では、スティーヴ役のクリス・パインがいい。「スター・トレック」シリーズのカーク船長でおなじみの彼ですが、今作は新たな代表作となったのではないでしょうか。激闘の中でダイアナに惹かれていく微妙に揺れる「男心」を見事に演じきっています。その他の配役も的確で、非常にいいですね。スティーヴの秘書エッタ役のルーシー・デイヴィスもいい味を出しています。2時間半とこの種の作品としては長尺ですが、いささかの緩みもなく、最後まで見事に引っ張る脚本も素晴らしいと思います。


2017年9月01日(金)
 2011年に亡くなったイラストレーション界の巨匠、梶田達二先生の作品展「機能美を追求し続けた…梶田達二 油絵展」が、池袋東武百貨店6階で開催中です。いつ見ても梶田先生の作品は圧倒的な美しさ、官能的と言ってよいほどの色気すらある帆船や飛行機、機関車…すごいです。今回はおなじみの日本丸や海王丸のほか、外国船、蒸気機関車、それに零戦や紫電改などの軍用機の絵が展示されています。
 本展は入場無料。9月6日(水)まで。展示作品は購入可能で、20万円台ぐらいからありました。年々、評価が高まる先生の作品は、入手が難しくなる一方。興味のある方はお早めに。

2017年8月19日(土)
このほど、幕張メッセで開催中の「ギガ恐竜展2017−地球の絶対王者のなぞ」というものを見てきました。日本の歴代恐竜展史上で最大となる全長38メートルの「ルヤンゴサウルス」をはじめ、日本初公開を含む恐竜の全身骨格などを多数、展示しております。
実際、このルヤンゴサウルスは本当に大きい! 恐竜展史上最大をうたうだけのことはあります。これほど大きいものは、確かにこの種のイベントでも見たことがありません。
 ほかにも、恐竜の卵の化石など、かなりレアな実物が展示されています。一方、復元模型や恐竜ロボットなどの展示品にも力が入っており、目を引きます。楽しい恐竜展ですね。
この恐竜展は9月3日(日)まで、会期中無休。開催時間09:30〜17:00で入場は閉場30分前まで。大人(高校生以上) 2,200円、子ども(4歳〜中学生) 1,000円 などとなっております。
この後、近くのマリブダイニングで食事をし、幕張アウトレットを見て帰りました。


2017年8月11日(金)
「トランスフォーマー/最後の騎士王」Transformers: The Last Knightを見ました。製作総指揮のスティーブン・スピルバーグが本作の脚本を「シリーズで最高!」と激賞したそうですが、確かに前作から脚本家を代え、スピード感と新鮮さのある作品になったようです。
 今作は特に、「歴史」というものが大きなバックボーンにある作品です。人類の歴史とあのトランスフォーマーの歴史が関わり合ってきた、というシリーズの核心部分の謎解きがなされるわけです。その舞台として歴史の国、英国を舞台としたのが本作の大きな特徴です。

 5世紀のイングランド。ブリトン人の君主アーサー王はサクソン人との戦いに苦戦していました。頼みの綱は大魔術師マーリン(スタンリー・トウッチ)。しかしマーリンの実態は大酒のみのペテン師にすぎませんでした。マーリンはサイバトロン星から飛来したトランスフォーマーの騎士団に頼み込み、苦境を救ってくれるように依頼。騎士たちはマーリンに、エネルギーを蓄えトランスフォーマーに指示を与えることができる杖を授けます。この杖の力でアーサー王は勝利し、マーリンの杖は歴史の彼方で伝説と化していきました…。
 そして現代。正義のトランスフォーマー、オートボットの指導者オプティマス・プライムは独り宇宙に旅立ち、前作で自分たちに刺客を放った「創造主」の真意を確かめに行きます。
 残されたバンブルビーたちですが、前作以後、関係が悪化した人類の側ではトランスフォーマーを根絶やしにする組織TRFが結成され、オートボットたちは追い込まれています。さらに前作で復活した悪のトランスフォーマー、ディセプティコンの指導者メガトロンも行動を再開し、状況は悪化するばかり。
 シカゴでの激戦の廃墟で、偶発的にTRFとオートボットとの戦いが勃発し、これに巻き込まれた少女イザベラ(イザベラ・モナー)を助け出したケイド(マーク・ウォルバーグ)は、偶然、サイバトロンの騎士から伝説の秘宝、タリスマンを授けられます。
 その頃、オプティマスはサイバトロン星で、数千万年前に地球の恐竜を絶滅させ、さらにトランスフォーマーを作り出した創造主クインテッサ女王に捕えられ、洗脳を受けていました。そして、女王はオプティマスに、地球人からマーリンの杖を取り戻すよう命じます。マーリンの杖はもともと女王の物でしたが、騎士たちが女王を裏切って奪い、マーリンに与えたものだったのです。この杖を手にすることで、女王は地球からエネルギーを搾り取り、サイバトロン星を復興させると宣言します。
 危機が迫ったことを悟った英国の貴族バートン卿(アンソニー・ホプキンス)は、オックスフォード大学の女性教授ヴィヴィアン(ローラ・ハドック)と、ケイドを呼び寄せます。バートン卿は長きにわたりマーリンの杖の秘密を守ってきたウィトウィッキー騎士団のメンバーであると言います。そして、伝説のタリスマンを手にしたケイドこそは、かつてのアーサー王と同様、トランスフォーマーの友人であり、地球を守るべき「最後の騎士」であり、そしてヴィヴィアンは実は魔術師マーリンの直系の子孫で、あの杖を起動できる唯一の人物だ、というのでしたが…。

 というようなことで、実際にはもっと話は盛りだくさんですが、アップテンポの脚本が見事につないで行って、十分に理解できます。このへんのさばき方は見事なものです。
 今作で何しろ面白いのは、歴史の取り上げ方です。冒頭のアーサー王と円卓の騎士の登場シーンは本格的な史劇そのものです。それから、バートン卿の屋敷には、今でも第一次大戦が続いていると思っていて、当時のマークW型戦車にしか変身できなくなっているトランスフォーマーがいたりします。ケイドをアメリカから英国に運ぶ超距離爆撃機YB−35や、ヴィヴィアンとケイドをマーリンの杖の在り処に導く英国海軍の戦時中の潜水艦アライアンス号なども、実はいずれも戦争中から現代まで、当時の兵器になりきったままのトランスフォーマーだ、という設定です。
 その第二次大戦中には、バンブルビーが連合軍の特殊部隊「悪魔の旅団」(後のグリーンベレーの前身)に所属していたとか、シリーズ3作目までの主人公サム・ウィトウィッキーが実は、アーサー王の円卓の騎士の流れを汲み、マーリンの杖の秘密を守護する秘密結社ウィトウィッキー騎士団のメンバーの末裔であったとか…まことに興味深い逸話で満載です。アメリカ独立戦争、ナポレオン戦争、二つの世界大戦など、歴史の要所でトランスフォーマーは暗躍し、人類の歴史に関わってきたという描き方が、非常に効果的です。
 今回、特に秀逸だったのがバートン卿の執事コグマン。これがトランスフォーマーで、バートン卿の家に実に700年も仕えている、という設定であるのも面白いところです。また二人のヒロイン、イザベラとヴィヴィアンも魅力的です。短い登場シーンでその人の背景や性格を的確に描いていて、こういう娯楽作品の枠の中で、うまい描き方だと感じます。
 今作では、シリーズ一作目からの出演者であるレノックス大佐(ジョシュ・デュアメル)やシモンズ捜査官(ジョシュ・タトゥーロ)が出ているのも嬉しいところ。
 今後、本作の流れを受けてさらにシリーズはクライマックスに突入していく予感がしますが、この出来栄えなら期待大ですね。


2017年8月05日(土)
「ザ・マミー/呪われた砂漠の王女」The Mummyという映画を見ました。主演はトム・クルーズ、共演にラッセル・クロウ、ソフィア・ブテラと豪華キャストで、古代エジプトのミイラが現代によみがえるストーリーを展開します。
 と聞けば、ああこれは何かミイラもの映画のリメイクなのだろう、とピンとくるわけですが、その通りでして、本作は1932年公開のミイラ映画の元祖「ミイラ再生」The Mummy(主演:ボリス・カーロフ)を下敷きにした作品。1920年代に大センセーションを巻き起こしたツタンカーメンの王墓発掘をイメージして製作されたものでした。そして、これのリメイクとして1999年以後、製作されたのがあのレイチェル・ワイズを有名にした大ヒット・シリーズ「ハムナプトラ」三部作だったわけです。それで今回は、モンスター映画の本家ユニバーサルの新企画「ダーク・ユニバース」シリーズの第一作としてのリメイク、となった次第。よって、同シリーズとして今後も、ハビエル・バルデム主演で「フランケンシュタイン」、さらにジョニー・デップ主演で「透明人間」などを予定している、とのことです。
 しかしそうなってみると、2014年に公開されたルーク・エヴァンス主演の「ドラキュラ ZERO.」Dracula Untoldはどうなってしまったのか、というのが気になります。確かあれがユニバーサルの21世紀モンスター・シリーズ第一弾だったのでは? 結局あれは盛り上がらなかったので「なかったこと」にされてしまったのでしょうか。実際、たまたま一作目が当たったので続編に至った、というのと違い、初めからシリーズ物で行く場合の第一作というのは責任重大。マーベルの「アベンジャーズ」シリーズも、トップバッターの「アイアンマン」が成功したからこそ、今日まで続けることができたわけです。
 そういう意味で、絶対に失敗できない、という意気込みでトム・クルーズを出してきた、ということなのでしょうね。

 1127年、ロンドン近郊、オックスフォードの地下墓地にて。密かに埋葬される十字軍騎士の胸元には大きなオレンジ色の宝石「オシリスの石」が輝いています。それは彼らが中東への遠征で掠奪した古代エジプトの魔石なのでした。この秘石は永遠に騎士団の秘密とされるはずでしたが・・・。
 それから時は流れ、現代。地下鉄工事の掘削機が偶然、十字軍の秘密墓地を掘りあてます。ここに重大なものが隠されていると察知したヘンリー・ジキル博士(クロウ)率いる極秘のモンスター対策機関プロディジウムは、工事関係者を墓地から追い出し、接収してしまいます。
 同じころ、イラクの反政府ゲリラが抑えている土地を進むアメリカ軍の偵察兵の姿がありました。ニック・モートン軍曹(クルーズ)とクリス・ヴェイル伍長(ジェイク・ジョンソン)の2人ですが、彼らは軍人とは名ばかりで、行く先々の財宝や文化財を手に入れては売り払うという泥棒そのものの行為を繰り返しています。
 今も、ニックが一夜を共にした女性から盗み出した地図を基に、グリーンウェイ大佐(コートニー・B・ヴァンス)の命令を無視して、財宝があるらしい村に突入し、ゲリラに取り囲まれて絶体絶命のピンチに。無人攻撃機の爆撃でゲリラは逃げ出し、地面に大穴が開きました。穴の奥からは意外なことに、なぜかメソポタミアではなくエジプト文明の遺跡が発見されます。そこにニックから地図を盗まれた考古学者ジェニー(アナベル・ウォーリス)が現れ、遺跡の重要さを力説。グリーンウェイ大佐は緊急に遺跡を調査するように命じます。
 ジェニーとニック、クリスの3人が遺跡の中に入ると、そこは巨大な墓であることが分かります。そして棺の中に眠っているのは、死の神セトと契約を結んで魔道に身を落とし、王位を狙って父親と弟を殺害した罪で、エジプトから遠く離れたこの地に、生きながらミイラとして埋葬されたアマネット王女(ブテラ)であることが分かります。
 大佐は輸送機でアマネットの棺を運び出すことにしますが、クリスは機内で異常な行動をとり始め、大佐を刺殺してしまいます。やむなくニックはクリスを射殺しますが、さらにカラスの群れが輸送機を襲い、ロンドン近郊で墜落することに。ニックはジェニーをパラシュートで脱出させますが、自分は飛行機もろとも地面に激突します。
 しかしどうしたものか、ニックは怪我一つ負わないで助かってしまいます。そこに出現したクリスの亡霊はニックに「お前はアマネットの呪いを受けた。だから死ななかったのだが、お前には死よりも恐ろしい運命が待っている」と告げます。
 同じころ、地上に落ちた棺から蘇ったアマネットは、人から生気を吸い取って力を取り戻していきます。憎悪に満ちた彼女の目標は、生贄としてニックを手に入れ、セト神にささげること。そして、その儀式のために「オシリスの石」を手に入れることでした。アマネットに襲撃されたニックとジェニーは危機一髪のところで、モンスター対策機関プロディジウムに救出されますが、責任者のジキル博士は、実は自分自身も極悪人の二重人格「ハイド氏」を抱えたモンスターなのでした・・・。

 というようなことで、なぜかここで「ジキル博士とハイド氏」の設定まで出てきて、ちょっと違和感はあるのですが、さすがにラッセル・クロウの演技力で見せてくれます。彼の着ているスーツが見るからに立派な仕立てなのですが、やはりサヴィル・ローのフルオーダー・スーツだそうですね。
 トム・クルーズはもうお見事。アクションシーンも難なくこなしていますが、本当は55歳ですからね。それで、劇中で「お前は自分が若いと思ってオレをなめているんだろう?」などとハイド役のラッセル・クロウから呼び掛けられるのですが、実はトム・クルーズの方が53歳のクロウより2歳も年上(!)。上官役のコートニー・B・ヴァンスは57歳で、ほとんど同年代。普通、ベテランの鬼軍曹役というならともかく、アウトローで女好き、命知らずな偵察部隊の若手下士官なんてチャラい役柄は、体力以前に雰囲気的に、50代の人は出来ません。もう日頃の鍛錬のなせる技ですね。
 「キングスマン」で一躍、売れっ子になったソフィア・ブテラはさすがにはまっていて、そもそもこの人ありきで制作が決まった映画だそうですから、素晴らしい存在感ですが、なにかここまでやるならもっと派手なアクションをしてほしかったですね。もうちょっとこの人を見たかった。最初のうち、完全復活するまでは干からびたミイラ状態なので、意外に彼女本来の姿が見られるシーンは少ないのですよ。
 もう一人のヒロイン、アナベル・ウォーリスも魅力的です。この人も近年、大注目されて売れっ子になりつつある人ですが、知性と気品がある人ですよね。こういう現代物でも、時代劇でもこれから引っ張りだこになりそうな予感がします。
 本作については、海外の批評で「いかにもシリーズ作品に続く、という感じの制約がスケールを損なっている」という辛口のものが見受けられますが、確かにそういう感じはあります。何か連続テレビドラマの第一話のような、話の決着の付け方が寸止め、という感想を持つ人はいるのかもしれません。比較するなら、「ハムナプトラ」の方が話としては大風呂敷で面白かったような気がするわけです。今作のアマネットは、要するに現代の世界で何をしたかったのかがイマイチ、薄弱な感じは否めないわけです。
 しかし、やはり出演陣の頑張りというもので、一本の活劇としてのレベルは非常に高い。やはりこれはトム・クルーズでなければ成り立たなかっただろう、という気がします。衣装担当は「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズのペニー・ローズが担当しています。古代エジプトのシーンの豪華な衣装や、騎士団の衣装などが素晴らしく、ミイラや現代の登場人物の服装もよく考えられています。たとえばラッセル・クロウにはサヴィル・ローの最高級ビスポーク、トム・クルーズには正規のアメリカ兵の戦闘服ではなく、現地で調達したらしい適当なジャケット、という具合です。
 いずれにしても、今後の大河シリーズの発端として、見ておきたい一作です。


2017年7月23日(日)
 おや、見慣れた絵だけど、ローマ軍団の百人隊長についている表題が「羅馬軍団百夫長」とは? そう、これは私どもの本『軍装・服飾史カラー図鑑』(2016年8月、イカロス出版)の台湾版なのです。
 台湾でのタイトルは『圖鑑版 軍裝、紳士服飾史』ISBN13:9789865688745 といいます。直訳ですね。出版社は楓樹林、翻訳は黃琳雅さんで、7月25日に刊行だそうです。
 前にも私たちの『図説 軍服の歴史5000年』(2012年、彩流社)が中国語版『図説 軍服歴史5000年』(東方出版)として出たことがありますが、海外の方に読まれるのは嬉しいです。
 詳細は以下のサイトにて。

http://www.sanmin.com.tw/product/index/006403335


2017年7月17日(月)
昨日ですが「第25回 日本テディベア with Friends コンベンション」(日本テディベア協会主催)を見に、東京・有楽町の東京国際フォーラムに行きました。テディベア作家・岡部紀代美様のご招待を受けてのことでした。
 日本のテディベア作家を中心に、海外・企業の様ざまなベアが集結し、ぬいぐるみで埋め尽くされる会場は毎度のことながら圧巻です。すごい熱気でしたね。
 会場入り口には、このイベントの名物のビッグぬいぐるみがありました。今回はマンモスや恐竜など、ベアではない珍しいものもありました。
 ところで、ずっと東京国際フォーラムで開催されてきたこのイベントですが、来年からは高田馬場の住友不動産ガーデンタワーにあるベルサール高田馬場に会場を移すそうです。その理由と言うのが、2020年夏の東京五輪のために、早くも来年、つまり2018年夏からは準備のために国際フォーラムが使用できなくなる、というのです。
 五輪のためにいろいろ影響が出てくる、イベント会場では深刻な問題があり得る、という話がありましたが、現実化してきましたね。


2017年7月14日(金)
 数日前ですが、東京・九段下の靖国神社にあります「遊就館(ゆうしゅうかん)」に行きました。というのも、現在、特別展として「甲冑武具展‐戦国時代〜江戸時代‐」というものをやっているからです(上から写真1)。もちろん常設展示はいつも通りで、「彗星艦爆一一型(写真2)」や「零戦五二型(写真3)」、「九七式中戦車(写真4)」といった目玉展示もいつもの場所にありますが、今ですと、常設展のほかにこの特別展示を見られるのです。
 靖国神社遊就館といえば、どうしても太平洋戦争関連の展示を思い浮かべますが、実は戦前には、武家時代の甲冑や武具の展示の方が多かったそうです。そもそも明治以後、文明開化の掛け声の下に、散逸してしまいそうな日本古来の刀剣や甲冑を保存することが、同館の設立目的だったからです。その反面、日本軍の軍服や装備などは、当然のことですが、その時点においては珍しくもなんともなかったわけで、あくまでも戦没者の遺品として大事にする、という意味合いであり、コレクションとしての積極的な収集や保存の対象ではありませんでした。
しかし戦後は、明治以後の戦争を中心とした構成になり、また、日本軍が消滅したことで、その装備品も歴史的資料性が高まったこともあり、そちらが展示の中心となる中、膨大な江戸期以前の甲冑や武具のコレクション展示は大幅に縮小されました。
しかしここには、あの小早川秀秋の陣羽織や甲冑(写真5)、織田信長の南蛮帽形兜(写真6)、加藤嘉明の富士山形兜、豊臣秀吉が京極高次に贈った兎耳形兜(写真7)、日根野備中守の唐冠形兜、落合左平次が長篠の合戦で鳥居強右衛門の最期の姿を描いた背旗図、ナポレオン三世から徳川幕府に贈られた騎兵用胸甲、福島正則の直筆書簡、非常に珍しい安土桃山時代の馬鎧一式(写真8)…といった、歴史ファンからすれば垂涎の超弩級コレクションがあり、今回は上にあげたようなものを中心に60点を特別展示しています。
この展覧会は、【会期】2017年12月10日(日)まで【開館時間】午前9時〜午後4時30分(入室は30分前まで)【拝観料】大人500円、大学・高校生300円、中学生以下無料。ただし、常設展拝観者および同神社の奉賛会員は無料、となっております。
歴史好き、特に戦国好きの人は必見だと思います。なお、常設展は撮影禁止ですが、今回の特別展はフラッシュをたかなければ撮影できます。また、大展示室の飛行機や戦車、野砲なども撮影できます。
そういえば、遊就館の売店では、私ども辻元よしふみ&辻元玲子の著作『図説 軍服の歴史5000年』を売っていました(写真9、10)。感激です。



2017年7月13日(木)
 少し前の話で恐縮ですが、「日刊ゲンダイ」の7月10日付け紙面、4ページの「街中の疑問」コーナーで、わたくし、辻元よしふみがコメントいたしました。
 今回のテーマは興味深いもので「なぜビールの売り子は帽子のかぶり方が変なの?」というタイトル。球場でビールを売る女性販売員の帽子の被り方についての記事でした。ここで私のコメントは、「深く被るほどサングラス効果と言って表情が読めなくなって、周りへの威圧感が増します。軍や警察の帽子がツバ深なのはそのため。逆にツバを上げるほど表情がよく見え、開放的で幼い印象になります」「メイドの髪飾りの変遷に似ています。あれはホワイトブリムといって、白い女性用の帽子が室内用に退化し、ブリム(ツバ)だけが残ったもの。メイドは仕事に従順であると同時に、女性としての愛嬌も多分に求められたため、髪を覆い尽くさない形式的な被り方が定着したと思われます」などとありました。


2017年7月12日(水)
 映画「ジョン・ウィック:チャプター2」JOHN WICK CHAPTER 2 を見ました。中年期に入って、ちょっとヒット作のなかったキアヌ・リーブスが、50代を迎えて本格的なアクション映画に挑戦し、従来にない孤独な暗殺者像を演じて大きな反響を呼んだ「ジョン・ウィック」(2014年)。好評を受けて早々に続編製作が決まり、キアヌにとっても久しぶりの当たり役となりました。
 それから3年。製作予算も倍増し、前作よりゴージャスな作品となって帰ってきたのがこの一本であります。
 前作からさらに柔術の特訓なども受けて、華麗な投げ技が増えるなど、アクションがますます激しく見応えあるものになっております。豪華なセットやロケ、夥しい数のエキストラ出演者など、明らかに規模の大きな演出の作品となりました。一方で、前作のちょっと貧乏くさい味わいが役柄に合っていたのでは、という感じもしないではありません。とにかく、このジョン・ウィックが成功し、短時間でスクリーンに帰って来てくれたのは嬉しいです。前作の出演陣も皆、作中で死亡していない人物は再登場してくれております。

 前作で愛妻ヘレン(ブリジット・モイナハン)との生活のために、すっぱりと引退した凄腕の殺し屋ジョナサン・ウィック(キアヌ・リーブス)。しかし、病魔のためにヘレンを失い、さらにロシア人の不良に妻が残した愛犬を殺され、妻との思い出が詰まった愛車1969年型フォード・マスタングも盗まれてしまいます。怒りにまかせて不良の父親タラソフが率いるロシア人マフィア組織をたった一人で壊滅させてしまったジョンは、さらに愛車を取り返すために、タラソフの弟アヴラム(ピーター・ストーメア)の組織に乗り込み、ここでも邪魔立てするアブラムの部下を皆殺しにしたうえで、矛を収めてアブラムと講和し、壊れかけた愛車に乗って自宅に帰り着きます。
 旧知の盗難車専門の修理屋オーレリオ(ジョン・レグイザモ)に愛車を預け、2代目の愛犬と共に、再び静かな引退生活に戻るジョン。もう二度と殺伐とした生活に戻る気はなく、ヘレンとの楽しく懐かしい日々の追憶にふけるつもりでした。
 しかしそこに現れたのは、イタリア系の世界的犯罪組織カモッラの幹部サンティーノ・ダントニオ(リッカルド・スカマルチョ)。サンティーノはジョンが闇稼業を引退する際に、手助けしてくれた恩人ですが、その折に、約束を履行する証として、裏世界の絶対的な誓約「血の誓印」を交わしていました。つまり、サンティーノは必ずジョンのために一肌脱ぐ。その代わりに、サンティーノが求める場合、ジョンは必ず何であろうとその依頼を無条件で引き受けなければならない、という相互契約を保証するものです。闇社会ではこの「誓印」は絶対的なもので、命に代えても守らなければならないとされています。サンティーノは誓印を盾に、ジョンに殺人稼業への復帰を求めますが、ジョンはろくに依頼の内容も聞かず、言下に断ります。
 当然ながらサンティーノは報復に出て、ジョンの家を焼き払ってしまいます。ジョンは闇稼業の連中が集まる「コンチネンタル・ホテル」に身を移し、愛犬をホテルのコンシェルジュ・シャロン(ランス・レディック)に預けると、ホテルの支配人であり、闇の世界で隠然たる力を持つウィンストン(イアン・マクシェーン)と面会します。ウィンストンはジョンに、闇世界での鉄則2か条を改めて再確認します。つまり「@休戦地帯であるコンチネンタル・ホテル内では人を殺すなA誓印は必ず守れ」です。これを破ると厳しい死の制裁を受けることになります。ウィンストンの忠告を受け、やむを得ずジョンは改めてサンティーノの依頼を受けることにします。しかしその依頼と言うのは驚くべきもので、カモッラの北米首席の座に就いたサンティーノの姉、ジアナ・ダントニオ(クラウディア・ジェリーニ)を暗殺してほしい、というものでした。
 イタリアに飛んだジョンは、コンチネンタル・ホテルのローマ支店に投宿し、支配人ジュリアス(フランコ・ネロ)の面接を受けた後、武器のソムリエ(ピーター・セラフィノウィッチ)、防弾生地を仕込んだ戦闘スーツの仕立屋(ルカ・モスカ)らに次々に会って準備を整え、カモッラの会合の場に潜入します。ジョンとは旧知の友人であるジアナは、ジョンが誓印を持って姿を現したと知ると、覚悟を決めて自決の道を選びます。ジョンが相手では絶対に助かる道はないと悟ったからであり、不本意な仕事を履行しているジョンに同情したからでもあります。
 しかしその直後、サンティーノの部下アレス(ルビー・ローズ)率いる一団がジョンを襲います。ジョンを殺して口封じをし、円滑に姉が亡き後の後釜の首席に座る、という算段です。怒りに燃えたジョンは敵を一掃しますが、今度はジアナの護衛でやはり凄腕の殺し屋カシアン(コモン)に付け狙われることになります。
 そればかりではありません。ジョンがアメリカに戻ると、サンティーノは闇世界のネットワークを通じて、ジョンの首に懸賞金700万ドルをかけてきました。ニューヨーク中の同業者たちが、次々に容赦なくジョンに襲いかかってきます。さすがに傷つき絶体絶命に陥ったジョンは、カモッラやコンチネンタル・グループとは関係がない独立闇組織のリーダー、キング(ローレンス・フィッシュバーン)に助力を求めます。キングはジョンに、一丁の拳銃と、わずか7発の銃弾を与え、サンティーノが潜む建物にジョンを送り届けます。こうしてジョンの壮絶なたった一人の戦争が始まるのでしたが…。

 とにかく前作では、理不尽な目に遭って怒りに燃えるジョンが、犬と愛車の恨みのために、84人(パンフレットによれば)の敵を皆殺しにしてしまったわけですが、今作ではさらにそれがエスカレートし、家を焼かれた腹いせに、国際的な犯罪組織を相手に、もうどんどん死体の山を積み重ねていく(同じくパンフレットによれば141人)、という展開になります。ジョン・ウィックと言う男は、右の頬を殴られたら殺せ、売られた喧嘩は殺せ、やられたら倍返しではなく、とにかく無言で殺せ、という信条の人です。絶対に手を出してはいけない相手なのに、なぜかバカな人たちが次々に彼を挑発してしまう(笑)。お前ら、そんなに死にたいのか? そんなセリフがつい、口をついてしまいます。
 そして、ジョンのすべての行動の根底にあるのが、たった一人の最愛の女性を失った悲しみと絶望、それだけなのです。その悲しみと怒りが、彼を挑発した馬鹿どもに次々に死の銃弾を叩き込ませるのです。闇の世界は理不尽ですが、ジョンと言う人物はそれを上回る理不尽さの塊のような人で、純真な悪人、善良無垢な犯罪者で人殺し。そこがとにかく新感覚です。
 前作ではホテルのサービスとして「ディナーを予約したい」と注文すると、死体と殺人現場を片付けてくれる、というのがありました。今回はさらに、お客さんのためにワインではなくお薦めの武器を見立ててくれるソムリエとか、戦闘スーツを誂えてくれる高級テーラーとか、殺しの仕事専門の秘密地図屋とか、さらに興味深い設定の裏稼業の住人が登場します。特に、女性オペレーターに電話すると即座にすべての殺し屋の携帯電話に、暗殺の依頼が届く「アカウント部」という組織の存在が非常に面白い。映画ならではの、実際にあるわけはないけれど、実在したら面白いような設定が目白押しです。
 追記しておきますと、仕立屋役のルカ・モスカは、実はこの作品の衣装担当者でもあります。つまりホンモノなのです。登場シーンの撮影場所も実在の老舗テーラーの店内だそうです。
配役面では、まず往年のマカロニ・ウェスタンのスターで「続・荒野の用心棒」Djangoのジャンゴ役で有名なフランコ・ネロの出演が目を引きます。数年前に「ジャンゴ 繋がれざる者」にも出ていましたね。ローレンス・フィッシュバーンは「マトリックス」三部作のモーフィアス役、ピーター・ストーメアは「コンスタンチン」のサタン役でキアヌと共演しています。
ニューヨークでジョンに襲いかかるスモウ力士の殺し屋を演じた日本人俳優YAMAとは、数年前に角界の不祥事疑惑で引退を余儀なくされた本物の元力士、元前頭・山本山関のことだそうです。なんと第二のキャリアとしてハリウッド・デビューしていたわけですね。これはすごい転身です。
 ただそれにしても、ニューヨークでは一ブロック歩くごとに、あんなにスマホを片手に暇を持て余している殺し屋がうろついているのでしょうか。不景気で、あまりおいしい仕事はないのでしょうかね。
 それに、これはちょっと結末部に触れることを申しますが、今回のエンディングは明らかに「続く」という感じなのです。「え、ここで終わりなの?」という感想は否めません。
 この点で肩すかしの感じはぬぐえないのですが、次作は楽しみでもあります。今後も続編や前日譚、ゲーム化の話などもすでに出ているとかで、ジョン・ウィック・シリーズはキアヌ・リーブスの50歳代のキャリアの代表作となりそうですが、既に年初の全米公開以来、大好評につき3作目の製作が確定し、脚本執筆も始まっているそうで、ここは今後の展開に期待するしかないですね。


2017年7月11日(火)
 パイレーツ・オブ・カリビアン・シリーズの新作「パイレーツ・オブ・カリビアン 最後の海賊」PIRATES OF THE CARIBBEAN DEAD MEN TELL NO TALESを見ました。原題は死んだ者は何も語らない、つまり「死人に口なし」の意味です。
2003年にシリーズが開始して以来、すでに14年。撮影開始時にまだ30代だったジャック・スパロウ役ジョニー・デップも50代半ばになっています。ディズニーランドの「カリブの海賊」を基に製作された軽い娯楽作品だったものが、こんなに長く続く大河シリーズに成長するとは、当初は誰も思わなかったと感じますが、今作は特に、大ヒットした第一作のテイストを取り戻しつつ、壮大なスケール感も加えた快作ではないかと個人的に思いました。
一作目の「呪われた海賊たち」にあった軽妙なコミカルな味わいとドタバタ感。あれがよかったという人は多いと思います。その後、二作目「デッドマンズ・チェスト」、三作目「ワールド・エンド」と予算が増えるほどに話が壮大になったのはいいのですが、ちょっと重々しくなり過ぎ、悲愴な感じになりすぎ、という声もありました。そこで、四作目の「生命の泉」では、出演陣も一新してリブートを図ったもののようですが、率直に言って番外編的な展開で、今度は地味になってしまった印象が否めませんでした。
 三作目は、それまでのシリーズを支えてきたウィル・ターナーとエリザベス・スワンの恋が成就はしたものの、ウィルが深海の悪霊デヴィ・ジョーンズの呪いを受け、幽霊船フライング・ダッチマン号に乗って永遠に海をさまよう身になることで、引き裂かれてしまう、という悲劇的な幕切れで終わりました。
 本作は、そのウィルとエリザベスの間に生まれた息子ヘンリー・ターナーが活躍します。そして嬉しいことに、ウィル役にオーランド・ブルーム、エリザベス役にキーラ・ナイトレイが復帰しています。このシリーズで名を上げて、今では押しも押されもしない大スターとなった2人がこの世界に帰って来てくれたことは、初期からシリーズを見ている人には感動的ですらありますね。

 幽霊船に捕らわれの身となってしまった父ウィル・ターナー(ブルーム)の呪いを解こうと誓った息子、ヘンリー・ターナー(ブレントン・スウェイツ)は、英国海軍に志願して水兵見習いに。彼は伝説の海賊ジャック・スパロウ(デップ)を探し出し、すべての海の呪いを解除するという幻の秘宝「ポセイドンの槍」を探し出すことを心に決めています。
ヘンリーの乗る軍艦は「魔の三角海域」に差し掛かり、恐怖の悪霊サラザール艦長(ハビエル・バルデム)の幽霊船に襲われ沈没します。サラザールは他の乗組員を皆殺しにした後、恨みのあるジャック・スパロウに、いつか仕返ししてやると伝えるように告げ、ヘンリーだけを解放します。
 生き残ったヘンリーは英植民地セント・マーティンの海軍施設に収容されますが、逃亡兵として処刑されることになります。そんなヘンリーを助け出したのは、18世紀にはまだ異端とみなされた女性天文学者カリーナ(カヤ・スコデラリオ)でした。彼女もまた、父が残したガリレオ・ガリレイの日記を手掛かりに、伝説のポセイドンの槍を見つけようとしており、ヘンリーに興味を持ったのでした。しかし、科学的な知識を持つカリーナは街の人々から誤解され、結局、魔女として告発されてしまいます。
 そのころ、セント・マーティンでは銀行の開業式典が挙行されていました。華々しく最新式の金庫が紹介されると、あにはからんや、金庫の中に忍び込んでいたのはジャック・スパロウその人でした。ジャックの金庫強奪の計画は失敗し、そのドタバタに巻き込まれたカリーナも捕まります。
 逃げ延びたジャックは、酒場でラム酒欲しさに、肌身離さず持ってきた秘宝「北を指さないコンパス」を手放してしまいます。しかしそれは大きな過ちで、コンパスは手放されると、持ち主が最も恐れる敵を解放する、という特性を持っていました。そして、魔の三角海域に長年、閉じ込められていたサラザールは行動の自由を得てしまいます。
 やがて、当局に捕えられたジャックは、見せしめとして、カリーナと共に公開処刑されることとなります。監獄でジャックは、伯父のジャック(ポール・マッカートニー)と再会します。
 処刑場に現れて、ジャックとカリーナを救い出したのは、ヘンリーと、ジャックの片腕ギブス(ケヴィン・R・マクナリー)たちでした。父の呪いを解きたいヘンリー、やはりまだ見ぬ父の残した日記の謎を解きたいカリーナ、そしてサラザールの呪いを封じなければならなくなったジャック。三者ともポセイドンの槍が必要であることで思惑が一致し、こうして一行は海に乗り出します。
 同じころ、サラザールの幽霊船に襲われた海賊バルボッサ(ジャフリー・ラッシュ)も、サラザールに協力して、やはり因縁のライバル、ジャックを追い求めることになります。こうして役者はそろい、伝説の秘宝が眠る未知の島を目指して、話は急展開していきます…。

 ということで、軍装史や服飾史の研究家として一言申せば、シリーズの初期からおそらく20年以上が経過していることを、登場人物の服装がしっかりと表現していると感じました。物語の途中、ジャック・スパロウが処刑されかけるシーンでは「最近、フランスで開発されたギロチン」が使われるのですが、ギロチン(断頭台)が登場するのは史実ではフランス革命後の1792年。すなわち、今回の映画の時代設定はほぼ、この前後で間違いありません。そして、本作で登場する英国海軍の軍人たちが身にまとっているのは、1774年〜1795年の間に使用された軍服に見えました。上の写真のような、紺色の生地に白い襟やベスト、白い半ズボン。金ボタンで金糸の刺繍に、金色のエポレット(正肩章)。そして、髪型は白い巻き髪のウィッグ、三角帽、という具合です。前作でバルボッサ船長が着ていたのは、明らかにこれより古いタイプ、1774年よりも前に使用されていたタイプに見え、さらにシリーズの初期でノリントン代将などが着ていたのも、やはりその頃の軍装に見えました。つまり、服装が新しい時代のものに変化しているようなのです。この後、1795年になると、あのネルソン提督がトラファルガー海戦で着ていたタイプの物に更新され、帽子の形も二角帽となってきます。
 今回の作品でも、ジャックや他の登場人物はほぼ、三角帽を被っています。しかしバルボッサだけは、当時、流行の最先端である二角帽(あのナポレオンが被っていたタイプ)を用いていて、彼が裕福で新しい物好きだったことを示しているようです。二角帽は、フランス革命を契機に「新時代の帽子」として世界的に急速に普及した形式です。
 こうして、徐々に服装が変化して行く様で、カリブの海賊が気ままに活躍する時代が終わりを告げ、近代的な国民国家と近代的海軍、特に大英帝国の海軍が世界の海洋を支配する19世紀が迫りつつあることを予感させているように思います。衣装を担当したペニー・ローズは、荒唐無稽な娯楽作品といいつつも、そのへんをしっかりと時代考証で裏付けし、見る人に感じ取らせようとしているのだと感じました。
 一方で、海賊退治を専門とするスペインの軍人だったサラザールたちの着ているのは、銀色を基調としたかなり珍しい服装です。18世紀末から19世紀初めのスペイン海軍の軍装は、下の写真に掲げたような、赤い襟が付いた紺色の軍服だったと思われるのですが、サラザールたちは恐らく、正規のスペイン海軍の軍人と言うより、海賊退治を専門とする私設海軍であり、国家の私掠船免許を持って正規海軍に準じた待遇を受けている民間船、という設定なのではないでしょうか。
 とにかく2人のオスカー俳優、ハビエル・バルデムとジェフリー・ラッシュの演技と存在感が圧倒的です。正直のところ、ジョニー・デップが食われてしまっています。ジャック・スパロウは徐々に本シリーズのアイコンとして、狂言回し的な立場になりつつある気もします。若い2人、「マレフィセント」の王子役で一躍、注目されたスウェイツと、「メイズ・ランナー」シリーズで有名になったスコデラリオの生き生きとした演技もいいですね。特にスコデラリオはハリウッドでも図抜けて目立つほどの美貌の持ち主。今後の活躍が期待されます。
 そして、出番は少ないながら、オーランド・ブルームとキーラ・ナイトレイの登場するシーンはとにかく感動的です。ここを見なければ、このシリーズを見てきた意味がありません。
 本作が、初期シリーズの味わいに対するリスペクトを持ちつつ、微妙な相違点も感じさせるのは、どこかこれまでと違う明快さ、脚本の分かりやすさがあると思います。監督はノルウェーから大抜擢されたヨアヒム・ローニングとエスペン・サンドベリの2人監督。脚本は「インデ・ジョーンズ」シリーズや「スピード2」のジェフ・ナサンソンが担当し、シリーズの中でも映画としての流れの良さ、ストーリーの無理のなさが本作の長所であると感じました。要するに、これまではどこか雑然としたストーリーが持ち味だったのですが、今回はスマートな作風に感じます。ここは北欧的な洗練が加わったのかもしれません。
 このシリーズが今後どうなるのか、継続するのか否かは分かりませんが、この時点でひとつの集大成的な作品として結実したように思います。若い2人の成長を今後も見てみたい、という気は大いにしますね。


2017年7月09日(日)
 暑いですね。いよいよ本格的に暑くなってきました。しかし、九州ではあれだけの被害をもたらす大洪水ということなのに、首都圏では水不足が懸念されています。本当に自然相手はうまくいかないものです。
 さてそれで、先日、GINZA 6(ギンザシックス)に行きました。開業後の喧騒も一段落して落ち着いていました。レストラン街の蕎麦屋さん「真田」でそばを食べましたが、これが非常によかったです。しかし撮影前にそばを食べてしまいましたので、写真にはビールしか映っておりません、あしからず(笑)。
 

2017年6月24日(土)
 ガイ・リッチー監督の「キング・アーサー」King Arthur: Legend of the Swordという映画を見ました。これまでロバート・ダウニーJr.を主演に据えた異色の「シャーロック・ホームズ」シリーズを成功させた同監督のこと、英国をはじめ欧米文化圏の人にとってはあまりにも有名な「アーサー王伝説」を、かなり自由に解釈した作品となっております。
これまでに何度も映像化されてきた題材で、近年で言っても、2004年の同名作品はクライブ・オーウェンと、当時まだ10代だったキーラ・ナイトレイの共演で話題を呼びました。それだけに、思い入れが強い海外のお客さんの間では、このガイ・リッチー版の個性の強い作風について賛否両論あったようです。
我々、日本人からしてみると、そもそもアーサー王は(モデルになった話はあるにしても)史実と言うよりファンタジーの題材であって、指輪物語やホビットと大差ないように思われるので、特に違和感なく見られるのではないかと思いました。ただ、それにしても、通常、流布している伝説では5〜6世紀ぐらいが舞台の話が、バイキングが欧州に攻め込んできた8〜9世紀になっているとか、あの時代にはちょっと考えがたい東洋人の武術の名人がいるとか、というあたりはご愛嬌ですが、さらに設定面で、本来はアーサー王の姉の息子、つまり甥(であると共に、実はアーサーと姉との不義の子)として登場し、最後に激しく対立する騎士モルドレッドが、敵の魔法使いとしていきなり出てくるとか、普通はアーサー本人以上に活躍する大魔術師マーリンがほとんど登場せず、その代わりに弟子を名乗る女魔術師が一人登場するだけとか、アーサーの祖父の逆臣として語られてきたヴォーティガンが、今回は父の弟、つまり叔父さんであるがゆえに、話としてはむしろハムレットになってしまったとか・・・おそらくこのへんが、欧米の熱心なアーサー王ファンからは、あまりよく思われなかった点の一端かとも思います。
とはいうものの、先ほども申しましたが、そもそもアーサー王伝説自体が荒唐無稽といっていい話なので、ファンタジー好きの日本人の一人として、私などが虚心に見る限りに於いて、なかなか面白い作品になっていると思いました。上に挙げた変更点も、それで盛り上がっているとも見えますので、映画表現として否定するようなことでもないと感じます。ただ、聞いた話では、本当はマーリン役にイドリス・エルバを迎えたかったのだが、断られたために、マーリンの出番がほとんどなくなった、などと聞きますが、それが本当なら、ちょっとショボイ感じは否めませんね・・・。

ブリタニアの王であり、聖なる剣エクスカリバーの使い手ユーサー・ペンドラゴン(エリック・バナ)は、弟ヴォーティガン(ジュード・ロウ)や騎士ベティヴィア(ジャイモン・フンスー)らと力を合わせ、キャメロン城に攻め寄せた悪の魔術師モルドレッドを倒します。しかしその後、兄の存在を疎ましく思い始めたヴォーティガンは、邪悪な魔道の力を用いて兄夫妻を殺し、王冠を手に入れます。幼い王子アーサーは逃げ延び、ロンディウム(現在のロンドン)のスラムにある売春宿で孤児として育てられます。
それから年月が流れ、ヴォーティガン王は自らの野心のまま、国民を虐げ、巨大な魔術の塔を建造しています。しかし、その工事中に城の近くの湖が干上がり、湖底から、岩に刺さったまま抜けなくなっている聖剣エクスカリバーが発見されます。ヴォーティガンの悪政にうんざりしていた国民の間で、聖剣を岩から引き抜ける者こそ、真の国王であり、行方不明になっているアーサー王子だ、という噂が瞬く間に広がっていきます。
ヴォーティガンと手を結んで軍事力を提供する密約を結んだバイキングの指揮官グレービアード(ミカエル・パーシュブラント)と町でトラブルを起こしたアーサー(チャーリー・ハナム)は、捕らえられて聖剣のあるところへ連行されます。国中の若者がこの剣を岩から抜けるかどうか試すように、国王の命令が布告されていたのです。軍人トリガー(デヴィッド・ベッカム)が見守る中、アーサーは剣を握ります。周囲の人々が驚いたことにそれは岩から引き抜かれ、強烈なエネルギーを感じたアーサーは気絶してしまいます。
アーサーは、叔父であるヴォーティガンと対面します。当然ながら、その結論はアーサーを「偽物」として公開処刑する、というものでした。そのころ、反ヴォーティガン闘争を続けているベティヴィアの下を、一人の謎めいた女性(アストリッド・ベルジュ=フリスベ)が訪れます。彼女はただ、大魔術師マーリンの弟子メイジ(魔術師)と名乗り、ベティヴィアにアーサーを救い出し、協力するよう告げます。
ヴォーティガンの面前で、アーサーはメイジやベティヴィアの手により脱走に成功しますが、スラムで育ったアーサーには全く自覚がなく、暴君を倒すことにも、王位を継ぐことにも興味がない様子。そこでメイジはアーサーをダークランドに導きます。そこに行けば、アーサーは両親が命を落としたあの日、何が起こったかを思い出すはず。しかしその真実は、アーサーにとっては思い出したくない辛く悲しい記憶なのでした・・・。

というような展開ですが、ガイ・リッチー監督らしく、映像のフラッシュバックで前後の話を強引に進める手法があちこちに使われており、はっきり申して、おそらく予備知識がないとストーリーがよく分かりません。登場人物も多く、そのへんの取っつきにくさもやや敬遠された理由かな、という感じも抱きました。ただ、そういう実験的な手法はファンタジーと相性は悪くなく、むしろ世界観をよく表現しているという評価も出来そうです。このへんは好き嫌いが分かれるかもしれません。
「パシフィック・リム」や「クリムゾン・ピーク」で名を上げてきたチャーリー・ハナムとしては、170億円を超える予算の超大作に満を持しての登場、というところなのでしょうが、何かアーサー王としてのカリスマ性は弱い印象も受けました。アーサー王の話は、水戸黄門的なカタルシス、つまり、スラムで育ったけれど本当は王子、という貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)の要素がほしいところで、「実はすごい人だった」というのが前半の苦労と落差があるほど効果的なのですが、この作品のアーサーはずっと現代的な不良の兄チャン、という感じがして、そういう演出が新しいアーサー像ともいえるのでしょうが、ちょっと重みに欠ける感じはあります。
一方、悪役に徹したジュード・ロウはいいですね。それから父ユーサーを演じたエリック・バナも久しぶりに王様役ですが、はまっています。この2人は、確かに王様に見えるのですけど、チャーリーのアーサーには最後まで、何かが「ない」んです。王者としてのオーラとか風格というものでしょうかね。
それからメイジという謎の役柄のベルジュ=フリスベは非常に味がある女優さんで、いかにも魔術師という感じです。結局、この作品では何者か分からないままで終わってしまうのですが、後のアーサー王妃グイネビアにあたる人物のようでもあり、あるいは魔女モルガン・ルフェイのようでもあり、なんだかはっきりしませんね。またマギーという国王の侍女が出てきます。劇中ではかなり重要な役柄ですが、これを演じたアナベル・ウォーリスは、奇麗な女優さんです。この人、まもなく公開のトム・クルーズ主演映画「マミー」でも活躍しているそうです。
そして、今作で話題になったのが、あのサッカー選手デヴィッド・ベッカムの映画デビュー作だったということ。まあ、ちょい役なわけですが、けっこうセリフもあり、なかなか演技も悪くないようで、興味深いところです。
総括すれば、いろいろ分かりにくい面もあるのですが、ファンタジー作品としては秀逸な一作だと思います。元ネタに思い入れが薄い日本人が、先入観を持たず見れば、大いに楽しめる一級の娯楽作品だと思います。



2017年6月22日(木)
 今年2月に亡くなられた、学校法人駿台学園の前理事長・瀬尾秀彰先生を偲ぶ「瀬尾秀彰の思い出を語る会」が、東京・飯田橋のホテルメトロポリタンエドモントで開催されまして、生前、仕事の関連でかかわりのあった私どもも、末席に連なってまいりました。
 かなり強い風を伴う雨の中でしたが、数百人の方が参加されて、故先生の御人徳がしのばれました。素晴らしい会だと思いました。
 皇居の歌会始や、総理主催の観桜会などにもたびたび列席されたそうで、ほかにも広範な人脈を持って、たくさんの人と人の縁を仲介した方だった、と登壇された方々が異口同音に仰ったのが印象的でした。
 


2017年6月18日(日)
しばらくブログやSNSの更新をしていませんが、特に本人や周囲に大問題等があったわけではありません。なんとなくサボっていただけでございます(!)。
 ところで、先日は東京・赤坂の紀尾井ホールで素晴らしいコンサートを聴きました。「浜くんと仲間たちオーケストラ」の第8回公演というものですが、著名なホルン奏者であり、長野県諏訪市の日本精機工業の経営者でもある濱一氏が、幅広い交友関係を生かして日本を代表する演奏者を集め、オーケストラを編成し、開いているという豪華なもの。その顔ぶれがすごくて、N響や日フィルなどの首席奏者が続々と集まり、普通ならソロを取る人が当たり前のように楽団の一員として演奏する、という・・・まあ、エース・パイロットだけで編成した夢の航空隊、というのがドイツ空軍でありましたが、ああいう感じ。いわゆるドリームチームです。
 とりわけ、日本を代表する技巧派ピアニスト横山幸雄氏と、サイトウ・キネン・オーケストラに属するヴァイオリニスト会田莉凡(りぼん)さんの競演などは鬼気迫るものでした。ラフマニノフのピアノ協奏曲も凄まじかったです。
 客席にはコシノジュンコ先生ご夫妻もいらっしゃいました。といいますか、私どもが今回、行ったのは、たまたまコシノ先生のブティックに私どもが行った際に、濱一さんがおいでになっていた、というご縁なんですが、いや、これは本当にすごかったです。


2017年6月02日(金)
 ヒュー・ジャックマンが最後のウルヴァリン=ローガンを演じる「ローガン」LOGANを見ました。2000年にスタートした「X-メン」シリーズの9作目、そしてヒューのローガン役も17年にして集大成を迎えたわけです。
 それだけでなく、やはりシリーズを最初から支えたプロフェッサーXことチャールズ・エグゼビア役のパトリック・スチュワートも、本作でシリーズから降板することになりました。2人の出るX-メンはこれでおしまい、ということです。シリーズそのものは今後、どうなるのか分かりませんが、やはりシリーズの顔だった2人が去ってしまうのは残念ですね。
 それにしても、ローガンというのは不老不死で不死身のミュータント、という設定なので、17年の間、ずっと鍛え抜かれた肉体を維持し続けなければならなかったヒューの苦労は如何ばかりだったでしょうか? 実際のところ、限界を迎えつつあったわけです。
そこで今回はなんと変化球を投げてきました。つまり、不死身のはずのローガンがついに、衰えてきたらどうなるか。能力が低下して普通の人となってしまったら? 原作のコミックシリーズでも、そういうローガンの姿を描いた「オールドマン・ローガン」という番外編的な作品があり、今回の映画の参考にしたそうです。といっても、内容的にはほとんど関係なく、能力を失い老人となったローガン、という設定面で影響を与えたようです。また、別のコミック作品では、ローガンが絶命してしまい、その能力を受け継いだ少女ローラが、ウルヴァリンの名を踏襲してX-メンに参加する、というストーリーもあるそうで、今回の映画はそのへんも参考にしたようです。とはいえ、基本的には、日本を舞台にしたローガン・シリーズとしての前作「ウルヴァリン:SAMURAI」(2013年)でメガホンを執ったジェームズ・マンゴールド監督が、自由に脚本を練ったオリジナル作品です。
 これまでのX-メン・シリーズは、2014年の「フューチャー&パスト」で歴史が大きく変わることになり、それ以前にずっと描かれたマグニートー(イアン・マッケラン。若年期はマイケル・ファスベンダー)と、チャールズ率いるX-メンの抗争という歴史も、一応、なかったことになってしまいました。この作品で1970年代から2023年に帰還したローガンは、何事もなく平和に暮らす懐かしいミュータントの仲間たちと再会し、胸をなでおろしてエンディングを迎えました。
 しかし、今作は2029年が舞台。その平和な2023年からわずか6年後、にしてはかなり世界観が異なっているようです。ずっと荒廃して西部劇のような無法な光景が続く「別の時間軸」の未来が映し出されます。かといって、それ以前の設定であった、2023年でミュータントが壊滅した世界とも異なるようです。従って、本作はあくまでもヒューのローガンのためにわざわざ設定された「別の世界の未来」と考えて差し支えないと思われます。
 実のところ、今作のテイストは非常に西部劇に近く、製作の際に最も参考にされたのはクリント・イーストウッド監督の西部劇「許されざる者」(1992年)だったそうです。髭を伸ばしたヒューも、若いころに西部劇に出ていたイーストウッドに驚くほど風貌が似ています。さらに劇中では往年の名作西部劇「シェーン」のシーンが引用され、これが最後まで重要な話の核となりますが、そういう意味でも本作は近未来西部劇、といえるような一作です。
さらにまた、今作のもう一つの味付けとして異色と言えるのが、ロードムービー的な描き方です。そういう感じを強めるために、劇中でチャールズとローガンは逃避行のさなか、ある農家の夕食の食卓に招かれるのですが、そこでの会話は途中から脚本を作らず、即興で演技をしたとか。確かにそのシーンは非常に生々しいというか、作ったセリフではない臨場感にあふれており、2人が本当に父と息子のような絆で結ばれていたことが溢れ出るようにフィルムに記録されています。あれは素晴らしいシーンです。
 さてでは、本作の概要を簡単にまとめますと…。

 時は2029年。ミュータントがほぼ絶滅してしまった未来のお話です。なぜか2004年以来、新たなミュータントが一人も生まれず、X-メンの仲間たちもさまざまな原因で世を去りました。残されたローガン(ジャックマン)は、アルツハイマー病が発症して強大なテレパシー能力を制御できなくなった90歳のチャールズ(スチュワート)を匿いながら、富裕客向けの個人リムジン・タクシー運転手として細々と生計を立てています。ローガン自身も長年の無理がたたり、身体に埋め込んだアダマンタイト合金に蝕まれて、不死身の治癒能力が劣化し、急速に老け込んで、「死」を覚悟するようになっています。かつてはミュータント狩りをする人間の側についたこともあるキャリバン(スティーヴン・マーチャント)も、ローガンと共にチャールズの面倒を見ています。
 チャールズは最近になって、「新しいミュータントとテレパシー交信した。もうすぐ救いを求めてやって来る」と言うようになりましたが、ローガンもキャリバンも、それを痴呆老人の戯言と受け取り、相手にしませんでした。
 そんなローガンの元を、ガブリエラ(エリザベス・ロドリゲス)という一人の看護師が訪ねてきます。彼女はローガンに救いを求めますが、ローガンは拒絶します。続いて、トランジェン研究所から来たピアース(ボイド・ホルブルック)という男が、ローガンに接触してきます。彼は、ガブリエラという女がやって来たら、彼女が連れている少女を引き渡してほしい、と言います。
 そしてある日、一軒のモーテルに呼び出されたローガンは、ガブリエラと再会します。ガブリエラはメキシコ系の少女ローラ(ダフネ・キーン)を連れており、カナダ国境のノースダコタまで連れて行ってくれるようローガンに懇願します。
 その直後、ガブリエラは何者かに殺され、ピアースが率いる戦闘部隊が襲撃してきます。キャリバンは捕えられ、やむを得ずローガンは、チャールズとローラを連れて逃げることになりますが、戦闘に巻き込まれた際のローラを見て、ローガンは驚愕します。彼女は拳からアダマンタイトの爪を出して敵に斬り付けるミュータントであり、その戦闘スタイルはあまりにもローガンにそっくりでした。
 ガブリエラが残した画像により、ローラはトランジェン研究所で行われた人体実験によって生み出された「兵器」であることが分かります。その研究は突然、打ち切られ、ローラのような子供たちは全員、殺されることとなりました。ガブリエラはローラを連れて研究所を逃げ出し、ローガンを頼ってきた、というのです。それというのも、ローラの遺伝子上の父親はローガンであり、つまりローラはローガンの娘である、というわけです。
 その後、一行は親切にしてくれた農家、マンソン一家の厚意を受け、温かい家庭的な雰囲気に包まれて久しぶりの安穏を得ます。チャールズとローガンとローラは、一家の前で祖父、父と娘としてふるまいますが、実際になんとなく、本当に一家のような絆を感じ始めます。しかし、その場にもピアースたちの魔の手が迫っており、さらに、もっと驚くべきミュータント兵器がローガンを待ち構えていました…。

 というようなわけで、悲しい物語が終盤に向けてひた走っていくわけですが、とにかくコミック映画とかX-メンという枠組みで見るよりも、先に申しましたように、近未来の西部劇ドラマとして鑑賞した方がいい作品だと思います。もちろんこれまでのX-メンの世界を踏襲しているのですが、前に書いた通り、従来の大河シリーズの歴史の流れを必ずしも汲んでいないので、全く独立した「親子三代」の物語として見ても違和感がない作風となっています。
 今作はシリーズで初めて子供が鑑賞できない残酷シーンがある映画、というR指定になっています。このへんも、監督やジャックマンが熱心に上層部を説いて実現したそうです。つまり、完全に大人向けの映画、ということです。
 シリーズ最後となるヒューとパトリックの鬼気迫る名演技は、もうこれを見逃してはもったいない、と思います。17年間の思いが詰まった美しい幕切れとなりました。まことに感動的です。
 それから、本作で抜擢された子役、ローラ役のダフネ・キーンの戦闘シーンがすごいです。「キック・アス」のクロエ・グレース・モレッツを思い出させます。この子はすごい存在感ですし、このまま大きくなればラテン系美女に育ちそう。何年かしたら有名になっているかもしれませんよ。楽しみな新人さんです。
 これでX-メン卒業の2人も、もちろん、他の作品でさらなる活躍を見せてくれると思いますが、それにしても寂しいことです。彼らのシリーズ最後の雄姿を、しっかり目に焼き付けておきたいと思いました。


2017年5月27日(土)
 今年のアカデミー賞は、大本命の「ラ・ラ・ランド」に対して、社会派ドラマの「ムーンライト」(ノミネート8、受賞3)と「マンチェスター・バイ・ザ・シー」(ノミネート6、受賞2)が対抗という決選になりました。特に対抗の2作品は、米大統領選挙のトランプ旋風という背景があって、黒人の同性愛者を描くムーンライト、いわゆる非エリートの白人を取り上げたマンチェスター・・・が注目されたのは間違いありません。ラ・ラ・ランド自体も、そうした中で14ノミネート中、6部門受賞にとどまった感じはあります。もちろん、社会派の2作品の素晴らしさに異論はないのですが、あくまで賞レースとしてはそういう展開になった、ということです。
 それで、そういう非常に現実政治的な環境で、最も割を食ったと思われるのが、有力候補の中で唯一のSF作品だったこの「メッセージ」Arrivalであります。8部門ノミネートされて、結果的には音響編集賞ひとつだけ、ということになりました。しかし、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の才能が隠れもなく発揮されている傑作でして、本当に、もう少し平穏な年の賞レースだったなら、と思わせる一作です。
 とにかく静謐な迫力に満ちています。これ見よがしな派手な演出は一切なく、非常に淡々と、しかし実況のように真に迫って描く本作は、久々に見た硬派なSFで、2時間あまりが一瞬も緊張の途切れることなく過ぎ去ります。「2001年宇宙の旅」や「インターステラ−」「惑星ソラリス」に似ているという声がありましたが、その通りでしょう。またSFではなく、心霊的な世界を取り上げた「シックス・センス」に似ている、という評もありますが、これも結末まで見ると、なるほど、的を射ています。
 原題は「到着」の意味です。突然、地球に異星人の宇宙船が到着する、というのが話の発端ですが、それだけを聞くと、さんざん今までにあったSF作品のありがちなテーマか、と思うところです。しかしとんでもない。突如、巨大な宇宙船がやって来る、ということなら「インデペンデンス・デイ」や「宇宙戦争」と同工なわけですが、今回はああいう分かりやすい侵略もの映画とは異質です。本作の異星人は、そもそも敵なのか友人なのか、何をしに来たのか意図が分かりません。そして、SFものによくある、異星人がたちまちテレパシーで交信して来るとか、自動翻訳機で流暢な地球の言葉(大抵は英語)を操る、などということもありません。地球人は彼らと何とかして、相互理解を図らなければならない。万一失敗したらどうしようか。誤解を与えたり、相手を怒らせてしまったりしたら。そういう緊張のあまり、主人公たちは心身の不調を訴え、極限状態を味わうことになります。異世界の住人との意思疎通がどれほど困難なものであるかを、あくまでもリアルに描き出していく本作は、ひょっとすると国内のコミュニケーションすらうまくいかないドナルド・トランプ大統領に、今いちばん見てもらうべき作品なのでは、とすら思われるのです。

 著名な言語学者のルイーズ・バンクス博士は、一人娘のハンナを難病で失い、心の傷が癒えないまま空虚な日々を送っています。
ある日、大学でいつものように言語学の講義を始めようとすると、学生たちの数が妙に少なく、教室内にいる生徒の様子もおかしいことに気づきます。テレビを付けてみると、信じられない光景が映っていました。世界の12か国(その中には日本の北海道も含まれます)に1隻ずつ、異星人の巨大な宇宙船が到着し、大騒ぎとなっていたのです。
 まもなくアメリカ陸軍のウェバー大佐(フォレスト・ウィテカー)がやって来て、モンタナ州に飛来した異星人の声を聞かされます。それだけでルイーズに意味が分かるわけがなく、結局、実際に異星人と会見し、その言語を理解して、彼らが地球にやってきた意図を探り出すことを依頼されます。数学者のイアン(ジェレミー・レナー)も加わり、ウェバー大佐とマークス大尉(マーク・オブライエン)ら米陸軍の軍人が見守る中、異星人との接触が始まります。
 異星人は七本足のためにヘプタポッドと呼ばれています。その宇宙船でルイーズたちアメリカ人と会うヘプタポッドは2体で、イアンは往年のコメディアン・コンビの名前から「アボット」と「コステロ」という愛称をつけます。彼らの発声言語は理解不能で、一方、書き言葉の方は、地球の漢字のような表意文字であることが判明します。少しずつ時間をかけて、彼らの意思を探るルイーズとイアンですが、ヘプタボッドの言語には時制という概念がなく、過去も現在も未来も、同じものとして認識していることが分かってきます。そして、なぜか彼らの言語が理解出来るようになるほどに、ルイーズには、亡き娘、ハンナの幻影が以前よりも強く蘇るようになってきます。
 そしてついに、ルイーズは彼らに「地球に来た目的は何か?」と質問します。帰ってきた答えは「武器を与える」でした。
武器という言葉が、人々を動揺させます。世界中は混乱し、異星人の存在に怯え、容赦なく撃退すべきだという声も聞かれるようになります。やがて、12の国はそれぞれ疑心暗鬼となり、初めは協力し合っていたのに、お互いに通信を絶つ事態に。中でも、中国人民解放軍の司令官シャン上将(ツィ・マー)は、ただちに異星人に宣戦布告し、攻撃を開始すると宣言。事態が緊迫する中、錯乱したマークス大尉は宇宙船に爆弾を仕掛けようと企みますが・・・。
 
 本作の異星人は、我々とは時間というものの捉え方が異なります。原因があって結果がある、という因果関係の法則が支配する、この3次元時空を生きていないようなのですね。そんな彼らの言語を、言語学者が会得していく内に、当然ながら、思考回路もその言語に影響されて変化していく。外国語を真剣に学ぶと、誰しも思い当たる現象ではないでしょうか。明らかに、日本語で考えるのと、中国語で考えるのと、英語で、ドイツ語で、ロシア語で考えるのは違うことである、と。バイリンガルという人たちは、言語を切り替えるたびに、頭の中の基本システムを変更しないと思考出来ない、といいます。
 最終的にルイーズの認識が大きく変革するような事態となっていきます。そして、中国軍の司令官、シャン上将(上将というのは、他国の大将にあたる階級)が意外な形でルイーズの物語と絡んできます。このへんのスリリングな展開は見事です。
 ディズニー映画「魔法にかけられて」のお姫様役で一般に知られるようになってから後、演技派女優として大活躍のエイミー・アダムス。今回は、特に異星人とファースト・コンタクトする際のあまりにも重い責任感と恐怖で潰れてしまいそうなヒロインの心情を見事に描き出しています。初めは印象が悪いけれど、実は頼れる男、ジェレミ・レナーもいい仕事ぶりです。アカデミー賞俳優のフォレスト・ウィテカーが、厳しい軍規と人情の間で微妙に揺れる高潔な軍人役を好演しております。
 本作は、原作小説があるわけですが(そして、原作者が中国系アメリカ人であることを知ると、ヘプタポッドの感覚や、その用いる文字がなんとなく東洋風であることも理解出来てきます)映像化という面では、かなり難しい作品だと思われます。よくこれを描ききったものですが、次回作として「ブレード・ランナー」の続編を製作中のヴィルヌーヴ監督、きっとSF史に残る傑作を作ってくれるのでは、と期待されますね。
 それにしても。確かにこの作品の半月型の宇宙船はスナック菓子「ばかうけ」に似ています。ヴィルヌーヴ監督がちゃめっ気たっぷりに「日本の皆さんもお気づきのように、本作の宇宙船の形状は『ばかうけ』を参考にしました。本当だよ!」と明るく冗談を飛ばす映像を見ましたが、こういうユーモアもある監督であることを知ると、また作品の持ち味が異なって見えてくる気がします。


2017年5月17日(水)
 このところ何かと多忙で、更新が滞っておりました。
 ところで、2年前、2015年の6月25日に、私はこんな記事を書いております。
 「私の身内が先月から、千葉県柏市・柏の葉キャンパスの国立がんセンター東病院にお世話になっておりましたが、このほど、めでたく退院となりました。この病院の9階には「クロスワン」という食堂がありますが、病院の食堂にしてはかなり豪快なボリュームメニューが出ます」
 さてそれで、このほど、たまたま柏の葉キャンパス駅周辺に行くことがあったので、2年ぶりにこの病院上階の食堂「クロスワン」に行ってきました。
 相変わらず豪快な、ボリュームたっぷりの定食です。玲子は生姜焼き、私は黒酢から揚げをとってみました。いずれも730円ほどです。
 だれでも利用することが出来ます。お近くを通りがかった方はぜひ。

2017年5月04日(木)
 ローソンに行ったら、やたらかわいいリラックマの御饅頭を発見! なんでも6月12日まで、春のリラックマフェアというのをやっているんですね。しかしよく出来ています。食べるのがちょっとかわいそう…。

2017年4月29日(土)
 映画「美女と野獣Beauty and the Beast」を見ました。いうまでもなく1991年の同名の大ヒット・アニメ映画の実写版です。使用している楽曲も、基本的な筋立てや登場キャラクターも91年版のまま。では、どうして今、実写化したのか、と思うところですが、見てみるとなるほど、と思います。つまり、91年版を制作した人々が本当に見たかった映像は、こういうものだったに違いない、しかし当時の技術では、アニメにするしかなかったのだな、という事実です。要するに、人々の想像力に映像技術が追いついた、ということです。
 たとえば、今回の作品では、主人公である野獣が、非常にこまかい感情表現を顔の表情で示します。表情で喜怒哀楽を微細に表す。しかし、一昔前の着ぐるみでは絶対にできなかったことですね。下手なものをやると、そこで興ざめになってしまう。1946年のジャン・コクトー版「美女と野獣La Belle et la Bête」の野獣は、特殊メイクでなかなか健闘していましたが、あれも白黒画面だから通用した感が強いです。
原作アニメでは、野獣がベルの一挙一動に、怒ったり、すねたり、いじけたり、喜んだり、最後には惚れ込んで夢中になったり・・・そのへんの心理の変化がアニメ的手法で表情豊かに描かれ、それが重要なわけでした。今回は、ファンタジックな世界観と、実写のリアリティーを両立させる、それにより、これが文字通り、絵空事ではないリアルである、と見ている人をこの世界に連れ込んでしまう迫真力。30年近い年月が、そんなことを可能にする技術革新を実現したわけです。野獣役のダン・スティーブンスは、まず全身の動きのモーション・キャプチャーを撮り、さらに表情だけに絞った演技をもう一度、撮影したそうです。そういう努力を経て、実現したこの映像のすばらしさ。
 ゆえに、今作はあくまでも91年版を実写化した、あのイメージを大切に再現した、というスタンスを貫いています。昔のまま、であることに意味があるわけです。下手な小細工は求められていない。当初案では、ミュージカル要素を廃して、ストレートな芝居にするという計画もあったようです。つまり、より現実的な実写で、アニメとは全く違うものにした方がよいのではないか、という考え方もあった、ということですが、ビル・コンドン監督はその意見を押しとどめ、「あの91年版の物語と楽曲を、最新技術で実写化する」という方針にしたそうです。
 それゆえ、「これが、本当にやりたかったことなのだ」という意味合いで受け止めますと、この映画の凄みが理解出来る気がします。「今さらなんで」とか「二番煎じ」という批判が当然、予想される中で、こういう映画を作ってしまったわけです。すでに公開から1か月で、世界興行収入は1000億円を超える大ヒットだそうですが、今の時代に、この企画を成立させ、実行するディズニーの大胆さはやはり恐るべし、と思う次第です。また多くの観客も、コンドン監督の示した「91年版の再現」という方針を喜んで受け入れた、と見てよいのだろうと思います。

 昔、フランスのある領地を治める城の王子(ダン・スティーブンス)が、盛大な舞踏会を開きました。そこに現れた老婆(ハティ・モラハン)が、一夜の宿を求めますが、王子はそのみすぼらしい姿をあざ笑い、追い返そうとします。しかし、その老婆は実は強大な力を持つ魔女で、王子と城に呪いを掛けてしまいます。すなわち、王子は恐ろしい野獣に、城の使用人たちは時計や燭台といった道具の姿に。さらに、魔法の薔薇の最後の花びらが散る前に、王子が「真実の愛」を理解しなければ、王子は永遠に野獣に、そして使用人たちも生命を失い、そのままただの古道具に化してしまうというのです。
 そのまま年月が流れ、魔女の魔法により、王子と城の存在も世間から忘れ去られてしまいました。
 それから後、この城の近傍にある小さな村で。パリから移ってきた芸術家で職人のモーリス(ケヴィン・クライン)の一人娘ベル(エマ・ワトソン)は、村一番の美女として有名ながら、読書と発明を愛する、当時としてはかなり飛んでいる女性で、村の中では浮いた存在でした。しかし、そんな彼女に一目惚れしてしまったのが、戦争帰りの野卑な元軍人ガストン(ルーク・エヴァンス)。自慢の体力とハンサムな顔で、村の娘たちは皆、ガストンに夢中ですが、何よりも知性を重んじるベルが、暴力的で自分勝手な彼を気に入るわけもありません。ずっとベルへの片思いが続く失意のガストンを献身的になぐさめるのが、戦地からの旧友であるル・フウ(ジョシュ・ギャッド)。しかしル・フウは、実は同性愛の傾向があり、ガストンに友情以上の感情を抱いているようです。
 ある日、村の外に出かけた父モーリスは、森で道に迷い、見たこともない古城にたどり着きます。一夜の宿を借りようとしますが、そこには魔女の呪いで道具にされた使用人たち、時計になった執事コグスワース(イアン・マッケラン)、燭台になった給仕頭ルミエール(ユアン・マクレガー)、羽根バタキになった女中頭プリュメット(ググ・バサ=ロー)、ハープシコードになったお抱え音楽家マエストロ・カデンツァ(スタンリー・トゥッチ)、衣装ダンスとなった声楽家ガルドローブ夫人(オードラ・マクドナルド)、そしてポットになったポット夫人(エマ・トンプソン)、その息子のチップ(ネイサン・マック)といった者たちがおり、気味悪くなったモーリスは逃げ出します。帰りがけに、ベルから頼まれていたお土産のバラを手折ったとき、恐ろしい野獣が襲ってきて、モーリスは捕らわれてしまいます。
 愛馬フィリップが単独で逃げ帰ってきたことで、父に異変があったことを察したベルは、城に駆けつけます。そして父モーリスの代わりに、自ら進んで野獣の人質になります。
 こうして野獣の捕らわれ人となったベルですが、使用人たちの心を込めたもてなしに心を和らげます。その後、ベルがオオカミの群れに襲われた際に、野獣が助けてくれたことをきっかけとして、野獣が実は心優しく、教養も高い存在であることを知り、徐々に心引かれていきます。ベルと野獣がダンスを踊り、ついに恋の果実は熟したか、というそのとき、ベルは父モーリスがガストンの差し金で、森に置き去りにされて死にかけた挙句、精神病院に監禁されようとしていることを知ります。
 野獣は、ベルを愛するがゆえに、ベルが城を出て行くことを許します。使用人たちは落胆しますが、野獣は「永遠に君を待つ」と歌います。
 一方、ガストンはおのれがヒーローになるべく、城の野獣を討伐する、と村人たちに宣言します。野獣狩りの一行を率いて先頭に立つガストンを見て、ル・フウは「確かに野獣は存在するに違いない。しかし、ここにもっと危険な野獣がいる」と呟き、ひそかにガストンを見限ることにします。
 野獣に迫る危機。ベルは父を救い出せるのか、そしてガストンたちが野獣の城に迫る中、一体、どう対処するのか。クライマックスへと話は向かいます・・・。

 ということで、基本的な大筋は91年版のままですが、違いもあります。野獣と、ベルの生い立ちについて明確に詳述されている点が、大きな相違点でしょう。なぜこういうことになっているのか、どうして今のような生活をしているのか、という意味づけがアニメよりしっかりされています。ベルも単に文学好きな夢見る少女、というよりも、アニメ版以上に、今で言う「リケジョ」的な気質で、18世紀なら確かに地域社会で浮いていただろう、いわゆるいじめにも遭っていただろう、という面が明確に描かれます。
 野獣がアニメ版と違い、王子としての高い教養を失っておらず、そこから知的なベルと意気投合する、という描かれ方も、より説得力があるでしょう。
 この作品でほぼ唯一の悪役ガストンも、単なる無教養でガサツ、無益な殺生を好む狩人で、愚かな乱暴者であった91年版と異なり、戦争帰りで軍服を着ており、今で言うPTSDを患って、狂暴化しているような解釈になっています。そして、甚だ単細胞だったアニメのガストンとは違い、非常に狡猾で大衆煽動がうまく、悪巧みにたけた人物になっている点も、かなり印象が相違します。
 しかし最も相違する点は、アニメでは全くガストンの腰巾着に過ぎず、あまり意味のないチョイ役だったル・フウです。彼が同性愛者であり、最後はガストンの狂気に疑問を抱く、という描かれ方は新鮮です。同性愛的、といっても本当に全くかすかに、それと匂わせる程度の描写が数回あるだけなのですが、一部の国や地域ではこの点が「不道徳」として、本作が上映禁止になったそうで、それは残念なことです。
 豪華キャストの中でも、エマ・ワトソンはまことにはまり役。クール・ビューティーぶりがこの作品ではひときわ魅力的です。アニメのベルとイコールとは見なさない方がいいように思います。91年よりもさらに個性をはっきりさせたベル、というキャラクターだと感じます。野獣役のダン・スティーブンスも、非常に難しいモーション・キャプチャーをこなしていますが、人間の姿の美丈夫ぶりも見ものです。それから悪役ガストンを熱演したルーク・エヴァンスも特筆ものです。これまで二枚目俳優として「ホビット」シリーズなどで見せたヒーロー然としたキャラクター像とは真逆の役柄ですが、この人がしっかり「悪」でないと、物語が成り立ちません。しっかりいい仕事をしています。それに、酒場でのミュージカル・シーンで見せる歌唱やダンスは見事なものです。
 その他の出演者もイアン・マッケランにエマ・トンプソン、ユアン・マクレガーと鉄壁の布陣です。道具姿でも、人間の姿でも安心して見ていられます。
 とにかく豪華絢爛たる映像美です。これは大スクリーンで味わいたいですね。そして、往年の名曲を、イメージを損なうことなく再現している点も素晴らしい。しかし、最後のリプライ・ソングでは、「ラ・ラ・ランド」でも大活躍したジョン・レジェンドが歌っているなど、現代的な味付けも忘れていません。
 さらに注目したいのが、「アンナ・カレーニナ」で見事な19世紀のロシア宮廷衣装を現代的な解釈で表現してオスカーを受賞し、ほかにも「プライドと偏見」や「マクベス」など史劇を多く手がけているジャクリーヌ・デュランの衣装。古典的なドレスや、歴史的な格好いい紳士服を扱わせたら右に出る者がない、という人ですが、今作でも遺憾なく、歴史的衣装への深い教養と理解を基に、上手に現代的なアレンジを試みているのが素晴らしいです。原作アニメ通りに、ベルの日常着は青色、ダンスでは黄色、野獣は青色の衣装を基調としていますが、たとえばアニメでは19世紀風の燕尾服だった野獣のダンスの際の上着が、18世紀前半までに流行したジュストコールになるなど、時代設定に即したものに変更されています。
この作品は、フランス版の「美女と野獣La Belle et la Bête」(2014年)でも同じような解釈をしていましたが、ちょうど、男女ともに服装が大きく変わる時代が背景にあります。原作の小説をヴィルヌーヴ夫人が書いたのが1740年。それゆえに、この物語を映画やアニメにする場合、18世紀の半ば前後を背景とすることが多いのですが、この1740年代から1世紀ほどの間は、西洋の服装が大きく変化した時期でした。男性の服装で言えば、お城の王子や使用人たちは、17世紀〜18世紀中盤までに流行した半ズボンやホーズ(長い靴下)、くるくる巻いた白いカツラ、ジュストコールと呼ばれるシングルで、刺繍の入った豪華な上着、それに白塗りの化粧や付けボクロ、などをしています。一方、18世紀後半の、そろそろ王政が終わる時代、やがて革命から19世紀のナポレオンの時代、という頃にはフランスの服装が変化します。女性は大げさな宮廷ドレスから、シンプルな服装に変化し、男性たちもカツラを使わなくなり、男性の化粧も廃れます。半ズボンより長ズボンが普通になり、実用的な乗馬ブーツも流行します。衣服はアウトドア仕様のダブルの乗馬服が流行します。帽子も徐々に、三角帽から二角帽に変化します。本作もよく見て戴ければ、冒頭の王子の服装と、ガストンが着ている服装が上のような変化を示しているのが感じられると思います。もちろん、史実に基づいた劇ではないので、そこまで厳密ではないのですが、魔女の呪いのために経過した「時代の変化」を、服装でも表現しているのがよく分かります。そういう点もさすがに抜かりない、見事な映像作品ですね。


2017年4月22日(土)
 「グレートウォール THE GREAT WALL」という映画を見ました。万里の長城をテーマにした本作は、昨年、中国の映画館チェーンを経営する「大連万達グループ」の傘下企業になったレジェンダリー・ピクチャーズが、中国市場向けに製作した映画、という見方をされがちですが、そういう先入観を持たないで見てみると、これがなかなかの快作です。
 レジェンダリーと言えば、これまでも「ダークナイト」などのバットマン・シリーズや、「300 :スリーハンドレッド」「タイタンの戦い」「ジャックと天空の巨人」「パシフィック・リム」「GODZILLAゴジラ」「ドラキュラZERO」「インターステラ―」「ジュラシック・ワールド」「スティーヴ・ジョブズ」「クリムゾン・ピーク」「ウォークラフト」、そして公開中の「キングコング 髑髏島の巨神」…と、見ているとマニアックというか、必ずしも万人向けを狙っていない、というか、かなり趣味性の強い映画を数々、製作してきた会社でありまして、嗜好が合うらしく、私も今、挙げた作品は、ほとんど見ています。
 今回も、中国市場を意識して、といってもそれで単純に中国人観客への一般受けを狙った作風を打ち出してきているわけでは決してない模様です。特に今作は、チャン・イーモウ監督のハリウッド・デビュー作品という一面もあります。イーモウ監督の独特の芸術的色彩感覚と映像美は、これまでも「HERO」「LOVERS」「王妃の紋章」などの世界的ヒット作を生み出してきました。また、コン・リーやチャン・ツィイーといった女優をスターに育てた監督でもあります。評価は高い監督ですが、決して万人に受ける、という作風の人でもありません。
 また、日本人の立場から見ると、北京五輪ディレクターという「国策監督」であり、南京事件を取り上げた映画「金陵十三釵(きんりょうじゅうさんさ)」を作った監督である一方で、高倉健主演の「単騎、千里を走る」の監督でもあり、なんとも賛否両論の出そうな人ではあるのですが、まあ今回はそのへんも先入観を持たないことにしておきます。
 本作では、ジン・ティエンという国際的には無名の28歳の女優をフィーチャーしてきましたが、これが魅力的です。さすがにイーモウ監督はヒロインの描き方がうまい。レジェンダリーつながりもあるのでしょうが、この人は公開中の「キングコング 髑髏島の巨神」にも出演しており、さらに「パシフィック・リム」の続編にも出演する予定だそうで、一気に国際的なスターダムに上りそうな予感がいたします。
 本作は、火薬が武器に使用され始めた12世紀、宋の時代の中国を舞台にしております。厳密に言えば北宋(960〜1127)なのか南宋(1127〜1279)なのか、微妙な時代と言えますが、あるいはこの映画に描かれた事件が北宋の弱体化を招いた、という設定なのかもしれません。ともかく、火薬は唐代には中国で発明されたと言われます。中国の歴代王朝はこれを機密として、門外不出の扱いにしていましたが、モンゴル支配下の元王朝で銃器が開発され、13世紀にはアラブ世界、欧州に伝わり、それから17世紀ぐらいにかけて、欧州の軍の近代化が急速に進んでいくわけです。
しかし12世紀の当時においては、圧倒的に中国の方が先進的で、国家の正規軍である「禁軍」も存在したことに比べれば、十字軍時代の欧州の騎士団は、軍事的には古式蒼然たるものでした。おまけに金次第でどこにでも仕える傭兵稼業の兵士たちも跋扈して、混沌とした状況でした。このへんは、中国人向けのひいき目を勘案しても、確かに中国の方が先進的な国であった時期であると思います。そういう時代背景のもとに、建造に1700年もかかったという万里の長城に秘められた別の意味合いを語るのが本作であります。

 12世紀のある時。十字軍崩れのイングランド出身の傭兵ウィリアム(マット・デイモン)と、相棒のスペイン人傭兵トヴァール(ペドロ・パスカル)は、契約主の命令で黒色火薬を求めてはるばる欧州から中国を目指していました。火薬を持ち帰れば、莫大な報賞が約束されているのです。しかし馬賊に襲われて仲間は次々に命を落とし、最後は2人だけとなって砂漠地帯の山中の洞穴に逃げ込みます。ここでウィリアムは、得体の知れない緑色の化け物に襲撃されますが、剣でその化け物の片腕を切り落とし、撃退します。
 さらに馬賊に追われた2人は、宋王朝の軍隊が守備する巨大な「万里の長城」に至ります。後方から馬賊が迫る中、選択肢は他になく、2人はシャオ将軍(チャン・ハンユー)が指揮する宋の守備隊に投降します。
 守備隊の女性幹部の一人、リン・メイ司令官(ジン・ティエン)はなぜか流暢な英語を操り、ウィリアムたちを尋問します。守備隊の参謀であるワン軍師(アンディ・ラウ)は、ウィリアムがたった一人で化け物を撃退したという話を聞き、大きな関心を持ちます。その緑色の化け物とは、その時代から約2000年の昔、飛来した隕石から出現した異世界の化け物で、なんでもむさぼり食らう恐ろしい存在。中国では饕餮(とうてつ)と呼ばれる凶暴なモンスターです。アリの生態に似ており、1匹の女王が全体の頭脳として群れを支配しており、60年周期で繁殖して攻めてくるといい、ちょうどこの時が、再び饕餮が長城をめがけて攻め込んでくる直前の時期なのでした。長城も、異民族への備えだけでなく、むしろこの化け物を防ぐために築かれたのだと言います。
 饕餮の大軍が初めて攻め込んできたとき、ウィリアムとトヴァールは目覚ましい活躍を示し、シャオ将軍やリン・メイから一定の信頼を得て、自由を得ます。また、ウィリアムはここで一人の若い士官候補生ポン・ヨン(ルハン)の命を助け、彼から厚い信頼を得ます。
ところで、砦には思いがけなくも、もう一人のイングランド人がいました。やはり火薬を求めて中国までやって来て、ここの守備隊に捕まり、25年もの間、軟禁されているバラード(ウィレム・デフォー)という老人です。彼がいるために、リン・メイやワン軍師など、一部の者が、流暢な英語やラテン語を使え、欧州の事情にも一定の理解がある理由が分かります。バラードは仲間が出来たことに勇気づけられ、3人で火薬を盗み出して、次の饕餮の攻撃があった際には、ひそかに逃げだそうと提案します。トヴァールは一も二もなくその提案に飛びつきますが、ウィリアムは、命がけで人々の生活を守ろうとしている長城の守備隊を見捨てて逃げ出す行為に疑問を抱きます。
 ある日、饕餮の奇襲を受けてシャオ将軍が戦死し、リン・メイが後任として長城守備隊の将軍に就任します。
 やがて、ウィリアムが饕餮に襲われた際、胸に方位を知るための磁石を入れていたことが、饕餮の動きを鈍らせたのではないか、という事実が分かります。磁石の磁界が、女王の指令を受け取れなくする効果があるようなのです。
 この事実を確かめるべく、次の攻撃では饕餮を生け捕りにしよう、とウィリアムはリン・メイに進言します。しかし逃げ出すつもりのトヴァールは激しく反対します。すぐに饕餮の大軍が長城に攻め寄せますが、バラードとトヴァールは火薬を求めてこそこそと逃げだし、一人、残ったウィリアムは饕餮の群れの中に決死の覚悟で飛び込みます。それまで半信半疑だったリン・メイもウィリアムの勇気に心を動かされます。トヴァールも結局、ウィリアムの行動に従い、不本意ながら今回の脱走は見送りました。
 しかし、饕餮の攻撃はまだまだ続きます。饕餮の弱点が磁石にあることを知った朝廷の勅使シェン特使(チェン・カイ)は、自分の手柄として皇帝(ワン・ジュンカイ)に披露したいがために、生け捕りにした饕餮を宮廷に運び込みます。一方、リン・メイたちは饕餮の本隊が山脈に穴を開けて通路を造り、長城を迂回して都に向かった事実を知ります。その混乱に乗じて、またトヴァールとバラードは脱走を企てます。さて、ウィリアムはどういう選択をするのでしょうか。さらに、都を饕餮に襲われれば、中国はおろか、次は世界中が襲撃されて人類は終焉を迎えるかもしれません。リン・メイたちはこの危機をどう乗り切るでしょうか・・・。

 ということで、とにかく素晴らしい映像です。「王妃の紋章」でも圧倒されましたが、この色彩感覚と、人海戦術のすさまじさは中国ならでは。長城のセットにしても、ハリウッド側が張りぼてを提案したところ、中国側の大道具さんは、レンガを積み上げて本物の長城のようにセットを築いたそうです。一方でハリウッドの一流どころが全力で支援しており、原案はあの「プロデューサー」のメル・ブルックスとアン・バンクロフト夫妻のお子さんのマックス・ブルックス、脚本は「プリンス・オブ・ペルシャ」のカルロ・バーナードとダグ・ミロ、衣装は「アバター」のマィエス・C・ルベオといった布陣です。本編1時間43分という短い時間でたくさんの情報を処理する脚本は非常に冴えていてテンポが良く、現代的です。また、特に衣装は見事で、禁軍に属する五つの部隊の鮮やかな色彩の甲冑が、史実をふまえながらもスタイリッシュで、色彩の魔術師たるチャン・イーモウ監督のこだわりに応えた素晴らしい出来栄えです。
 アンディ・ラウやルハンといった、中国では大人気のスターやアイドルを起用しており、みんなとてもいい演技をしていますが、やはり外国人の目で見ると、今回はジン・ティエンのための映画、という感じ。本当に彼女が魅力的です。近年、ボーン・シリーズはもちろん「インターステラ−」「オデッセイ」「エリジウム」などいろいろな映画で大活躍のマット・デイモンも引き立て役に徹している感じです。
なんでも、出演者一行が宿泊したホテルにたくさんの花束が届き、それが大人気のアイドル歌手であるルハンにあてたものであることを知って、デイモンはびっくりしたとか。同時に、自分は中国ではあまり知名度がないことにがっかりしたそうですが(笑)、いえいえ、実は正義感の強い誠実な頼れる男、という役柄は彼にピッタリです。
 今、いろいろな話題作が封切りされていますが、アクション好きな方なら大画面で見てほしい一作ですね。私たちは「これは劇場で見て良かった」と心から思いました。


2017年4月15日(土)
千葉県浦安市のディズニーランド併設のショッピングモール、イクスピアリにある映画館シネマ・イクスピアリでは、今「舞浜で名画を! キネマ・イクスピアリ」と題して、毎月1本ずつ、1週間だけ限定で、最新の映画ではない少し前の話題作や、クラシックな作品を公開する試みをしています。今や、昔あちこちにあった「名画座」はほとんど壊滅してしまいましたので、大スクリーンで見逃した名作が再映されるのは素晴らしいことです。
 それで、この14日までやっていたのが、2015年に話題になったドイツ映画「帰ってきたヒトラーEr ist wieder da」でした。昨年夏に日本でも公開され、かなり評判になったのですが、私たちはこの時期、自分たちの本『軍装・服飾史カラー図鑑』(イカロス出版)の最終追い込みに入っており(刊行は8月)、この映画を見る余裕はありませんでした。
 それが、ここに来て思いがけない舞浜登場、ということで、見て参りました。
 もう昨年に流行った作品ですので、ここでくどくど説明する必要もないと思いますので簡単に書きますが、要するに、1945年に自決したはずのナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーが、なぜか2014年のベルリンに蘇ってしまい、初めは時代の変化に当惑するものの、迫真の「ヒトラー物まね芸人」として人気者になってしまう、という話です。インターネットにSNS、テレビが完備した現代こそ、プロパガンダの天才であるヒトラーには、まさに水を得た魚のように活躍出来る理想的な環境である、という現実。おまけに、時代は移民排撃と反グローバリズムに明け暮れ、まさにナチス時代前夜のような世相。テレビ番組に出演することになるや、嫌悪されるどころか視聴者から絶大な人気を得たヒトラーは、最後には彼を「本物のヒトラー本人が蘇ったのでは?」と気がついたテレビ局の契約社員を精神病院に送り込み、さっそうとオープンカーに乗って叫びます。「これは好機到来だ!」
 とにかくヒトラー役のオリヴァー・マスッチが素晴らしく、本来の彼は全くヒトラーに似ていないのですが、特殊メイクにより顔貌は40歳頃の最盛期のヒトラーにそっくり。声色といい、いかにも言いそうなセリフといい、演説の前にわざと黙り込んだり、初めに意表を突くようなテーマで話し始めたり・・・まことにヒトラーの言いそうなこと、やりそうなことを徹底的に再現して、現代の世相に持ち込んでいるのがすごいです。
 そして、実際にヒトラーの特殊メイクのまま、ドイツ各地で突撃撮影をして、道行く人に語りかけたり、政治家に突撃取材したりしているのですが、そこで当惑したり、腹を立てたり、逆にヒトラーに意外にも親しみを込めて接する市民の姿を描いていきます。このへんはもうドキュメンタリーですね。かなり、危険な撮影だったと思いますが、このマスッチ本人も、スタッフもすごい勇気ですね。
 終盤になって、おそらくテレビ局の経費で作ってもらった、という設定なのでしょうが、金色の「総統用鷲章」が輝く革製のコートに身を包んだヒトラーは、有名な肖像画そっくりで、知っている人ほど慄然とするでしょう。
 この原作は2012年に刊行されてドイツでベストセラーとなり、映画制作は2014年ということで、トランプ氏の当選とか英国のEU離脱といった動きが目に見えて表れるより前に作られたことを考えると、原作者ティムール・ヴェルメシュ、デヴィット・ヴェント監督始め、制作した人々の慧眼には恐れ入ります。
 そして、ずっと見ていると、まるでイタコが口寄せしているかのような巧みな演技力で語られる「ヒトラーの主張」が、かなり正しいもののように思えてくるのがすごいです。そういうふうに見ている人が思ってしまう、というのが映画の力ですね。
 名画シリーズのおかげで、公開時に見逃した作品を改めてスクリーンで見られて幸運でした。今後もこういう試みを続けて戴きたいですね。


2017年4月11日(火)
 セブンーイレブンで売っている「うさぎのムースケーキ」ですが、かわいすぎますね、これ。食べるのがためらわれます。期間限定のようですので、興味のある方はお早めに。

2017年4月06日(木)
 今日あたりから新学期、という学校も多いようですが、桜が咲きましたね。今年はかなり寒い日が多く、遅めの開花のところが多いとか。
 千葉県浦安市も、市内の川沿いに桜が延々と植えられている通りがあって、その名も「さくら通り」といいますが、テレビ局の取材が来ることもある桜の名所です。この季節になると、見事に咲いてくれます。
 私ども浦安市役所近くの桜並木を見てきました。ほかにも、立ち止まって写真を撮る人がたくさん見受けられました。

2017年3月25日(土)
 ディズニー・アニメ映画「モアナと伝説の海」MOANAを見ました。この作品について、絵柄からほのぼのした作風を思い描いたら大間違い、「マッドマックス」の新作と「もののけ姫」を合わせたような感じで、非常に硬派な冒険アクション・ムービー、という映画評を読んだことがありますが、それは言い得て妙です。実際、ヒロインのモアナは強い使命感でミッションを果たし、自分の共同体を守ろうとするのですが、そのへんはむしろ「風の谷のナウシカ」も思い起こさせます。16歳の少女、ということもあってか王子様は登場せず、甘ちょろい恋愛話もなし。おふざけ的な展開もあまりなく、スケールの大きな海洋冒険物語となっております。
 「アナと雪の女王」はまずもって音楽のよさがヒットの要因となりましたが、今作も音楽が素晴らしいですね。主題歌「どこまでもHow Far I’ll Go」や挿入曲「俺のおかげさYou’re Welcome」は普通に発表してもヒット・シングルとなりそうな見事な曲です。
 今作の基本テーマは、メラネシアの人々がはるばる大洋を越えて、ポリネシアの島々に到達する歴史的な事実を取り上げる非常に野心的なものです。台湾に住んでいた祖先の人々は長い時間をかけ、メラネシアからミクロネシアの島々に移住していき、フィジーあたりまで進出していました。非常に高い航海技術を持っていたからで、西洋人が15〜16世紀にもなって「大航海時代」などと言いますが、アジアでは紀元前に海洋進出をしていたわけです。パンフレットによれば「しかし今から約三千年前、彼らの航海は突然停止した。そこから千年もの間、彼らは海を渡ることをやめ、他島への移住活動も行われなくなった―いくつかの説はあるものの、その正確な理由を知る者は誰ひとりいない。そして今から二千年前に航海が再開され、タヒチ、ハワイ、ニュージーランドなどの発見につながっていく」
 すなわち、このアジアの大航海時代「千年間の中断」はなんだったのか、を描いたのが本作。そして、モアナの冒険こそが「航海の再開」の契機となった、という描き方なわけです。なかなか壮大ですね。
 したがって本作の舞台は、二千年も前のメラネシアのどこかの島、ということで、地球の反対側ではローマ帝国が全盛期で、キリストが処刑されていたころ、太平洋ではこんな時代だった、ということです。時代考証を経た細かい服装や、髪の毛の描写など実に緻密で、CGアニメだからこそ手間がかかっています。そのへんはむしろ、実写の方が簡単ですものね。特に水にぬれた縮れ髪の描写が大変だった、といいます。また全編のほとんどで登場する海、波の描写も非常に苦労したそうです。途方もない人々の作業の成果が本作なのでしょう。

 1000年の昔、母なる女神テ・フィティの「心」を、変身の名人で、いたずら者の半神(デミゴッド)であるマウイ(声と歌=以下同じ:ドウェイン・ジョンソン)が奪い取りました。しかしそのために恐ろしい「闇」が生まれ、炎の悪魔テ・カァが出現。マウイはテ・カァに撃ち落とされ、テ・フィティの心も深海に沈んでしまいました。それから以後、闇は徐々に広がり、島々に栄えた文明は一つ、また一つと衰退して消えていきました。人々は闇の襲来を恐れるようになり、遠洋航海をやめ、それぞれの島に閉じこもって暮らすようになりました・・・。
 それから1000年の後、楽園の島モトゥヌイの族長トゥイ(テムエラ・モリソン)とその妻シーナ(ニコール・シャージンガー)の一人娘、モアナ(アウリィ・カルバーリョ)は、小さいころから海で遊ぶのが大好き。ある日、人格のある「海」が幼いモアナに渡そうとしたのは、あの「テ・フィティの心」でした。
 しかし、外洋に一歩も出ない島の掟に凝り固まっているトゥイは、モアナが海に関心を持つことを許さず、族長の後継者として育てようとします。ただ一人、モアナの祖母でトゥイの母であるタラ(レイチェル・ハウス)だけはモアナの理解者で、モアナに「自分の心の声に従って生きなさい」と諭します。
やがて大きくなり、未来の族長としての自覚に目覚めたモアナは、もう海に出ようとはしませんでした。それをトゥイは喜びますが、ある日、突然、異変が訪れます。島の作物が育たなくなり、魚も一匹も取れなくなる異常事態が発生し、大騒動になります。「闇」がついにモトゥヌイにも迫ってきたのです。外洋に出ようと進言するモアナをトゥイは一蹴し、独断で海に出たモアナはたちまち嵐に遭い、海の恐ろしさを思い知ります。絶望したモアナにタラは、モトゥヌイの一族の秘密を教えます。すなわち、先祖たちは初めからこの島にいたのではない、はるか彼方の土地から船に乗って移住してきた旅人だったのだ、と。
そうこうするうち、タラは倒れてしまいます。タラは最後の力を振り絞り、モアナに「お前は海に選ばれた」と告げ、とっておいた「テ・フィティの心」をモアナに託して、冒険に出るように促して、この世を去ります。
こうしてモアナは、たまたま船に乗った鶏のヘイヘイと共に、遠くマウイが幽閉されている島を目指します。モアナが本当に「海に選ばれた」者ならば、テ・カァとの戦いに敗れて、神から授かった魔法の釣り針を失い、変身能力を喪失しているマウイを復活させ、その助けを借りて「テ・フィティの心」を元に戻さなければなりません。
苦労の末にモアナが出会ったマウイは、話に聞いていた英雄的な半神とはほど遠く、お調子者でナルシスト気味の相当に自己中心的なヤツで、自分が問題の原因を作ったにもかかわらず、何の責任感も感じていない様子。ココナッツの海賊カカモラたちの襲撃を、マウイと協力して退けた後、モアナは釣り針を手に入れて、華々しい英雄として復活するようマウイを説き伏せ、マウイもモアナの熱意に根負けして、ようやくその気になります。
しかし、その釣り針は深海の魔物の国ラロタイを治める巨大なカニの化け物、タマトア(ジェマイン・クレメント)が所持しており、取り戻すと言っても容易なことではありません。マウイの復活と、テ・カァとの決戦はいかに。そして世界を飲み込もうとする闇の襲来を、モアナは防ぐことができるのでしょうか。

ということで、実際にヒロインと同年齢のアウリィ・カルバーリョの歌声が実に素晴らしいです。そして、もう一人の主人公マウイを演じているのは、元プロレスラーで「ロック」と名乗っていたドゥエイン・ジョンソン。彼が主演した「スコーピオン・キング」がヒットしましたし、「ワイルド・スピード」や「ヘラクレス」にも出ていますね。今回は頼りがいがあるのかないのか、つかみどころのない英雄の役なのですが、非常にはまっています。それもそのはず、実はジョンソンの祖父はサモア系で、太平洋諸島の人々に崇められている英雄マウイは、彼にとっても子供のころから憧れの存在だったそうです。思い入れが深い役をゲットしたのですね。
ミュージカル的な演出で感動させるパートと、豪快なアクション・シーンが交互に繰り出されて、最後まで畳み込まれる快作でした。日本では春休みの公開で、子供向けのような扱いになりがちですが、それで見過ごしてはもったいない一作だと思います。
なお、本作は最後の最後に追加シーンがあるので、慌ててお帰りにならないように。また、冒頭におまけ的な短編映画「インナー・ワーキング」という作品が5分ほどあります。こちらは内容的に、本編となんの関係もないのですが、これがまたなかなか秀逸です。


2017年3月21日(火)
このたび、明徳出版社から『洋外紀略』(安積艮斉)が刊行されました。原書は幕末期に活躍した大学者、安積艮斉(あさか・ごんさい)が書いた本です。安積艮斉はこの時期で最も影響力のあった学者で、弟子には三菱グループの創始者・岩崎弥太郎、悲劇の幕臣として有名な小栗上野介、新選組の原型を組織した清河八郎、そしてあの吉田松陰など錚々たる人たちがいます。さらに、その松陰の門下生に高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎らがいたわけで、いわば幕末の志士たちのゴッドファーザーのような人物です。
その艮斉さんが、当時としては異色の、海外諸国の事情を詳細にまとめ、国防の重要性を説いた一冊です。江戸にいてナポレオン戦争のこともアヘン戦争の経過も把握していた艮斉先生はすごい! 本書の名は森鴎外の代表作『渋江抽斉』にも出てくるぐらいで、当時において著名な本だったのですが、このほど、その艮斉さんの一族の末裔である安藤智重さんが原書の漢文を読み下し、現代語訳を完成させた次第です。大変な偉業です。
 なお、わたくしは僭越ながら帯文を書いております。こんな感じです。

「試みに鶏卵を机に卓(た)てんことを請う」
艮斎さんは、ナポレオンもピョートル大帝も、「コロンブスの卵」の話までも、知っていた。黒船が来航する前、もう世界を見通していた日本人が、幕末の江戸にいたのである! 
戦史・軍装史研究家 辻元よしふみ

 本書には、あのコロンブスの有名な「卵を立てる」逸話も紹介されております。幕末においてこんなことまで知っていた人がいた。驚きですね。

【基本データ】
『洋外紀略』(ようがい・きりゃく)安積艮斎 安藤智重 訳注 村山吉廣 監修 定価 2,916 円 (本体2,700 円+税) ISBN 978-4-89619-946-8 発売日 2017/03




2017年3月18日(土)
 映画「アサシン・クリード」ASSASSIN’S CREEDを見ました。ドイツ出身の人気俳優マイケル・ファスベンダーの主演作で、共演はフランスを代表する女優マリオン・コティヤール。またジャスティン・カーゼル監督は、同じ2人が主演した2015年の話題作「マクベス」の監督でもありました。
 この映画の元となったのは、フランスのゲーム会社UBIの代表作「アサシン」シリーズです。大ヒットゲームの映画化、というのは時々ありますが、やはりゲームと映画は異なる媒体なので、そのまま移植するわけにはいきません。
 ゲームの方は、人類の起源に異星人なのか超古代文明人なのか、とにかくいわゆる「神」のような存在が関わった、というのが前提の世界観になっております。そして、その「神」が残した情報をめぐり、古代から数千年の長きにわたり二つの秘密結社が抗争を続けており、その一方が人類を統制支配しようとする「テンプル騎士団」、もう一つが人類の自由意思を守ろうとする「アサシン教団」である、という設定です。
 この両者の戦いは現代にまで及んでいるのですが、テンプル騎士団が20世紀初めに創設したアブスターゴ財団が先端科学技術アニムスを開発し、遺伝子情報の中に残された先祖の記憶を再体験できるようになります。その結果、アサシン教団の戦士の子孫が、十字軍時代のエルサレム、ルネサンス期のフィレンツェ、産業革命期のロンドンに潜入し、先祖と一体となって歴史に介入し、現代の問題を解決していく、というのがゲームの基本的な話です。
 もちろん歴史上、実在したテンプル騎士団、暗殺(アサシン)教団をモデルとしているわけですが、史実とは関係なく、あくまでもゲーム独自の解釈になっているわけです。
 それで、今回の映画化では、上記の基本設定はそのままに、従来のゲームで登場したエルサレムやフィレンツェを選択せず、新たに15世紀末のスペインを舞台としています。つまりキリスト教勢力によるレコンキスタが成功して、最後のイスラム国家グラナダ王国(あのアルハンブラ宮殿で有名ですね。宮殿のシーンは映画でも登場します)が陥落、イスラム勢力が欧州から去り、スペイン王国が成立した頃、そしてまもなくスペインのイザベル女王の後援を得て、コロンブスが新大陸に出発する時期を舞台としています。

 1491年、スペインで暗躍したアサシン教団の戦士、アギラール(マイケル・ファスベンダー)は、同僚の女戦士マリア(マリアーヌ・ラベド)と共に重要な任務を遂行していました。グラナダ王国の最後の君主ムハンマド12世(カリード・アブダーラ)の幼い王子が、スペイン国王の側近でテンプル騎士でもある異端審問長官トルケマダ(バビエル・グティエレス)に捕えられ、ムハンマドが所持している古代の秘宝で、それを所持することで全人類を支配できる「エデンの果実」がトルケマダ、ひいてはテンプル騎士団の手に渡ることを防ぐ、というのがその任務でした・・・。
 それから500年後。1988年のメキシコ・バハで、少年カラムはある日、父親が母親を殺害し、さらに謎の勢力に逮捕される光景を目にします。その場を命からがら脱出したカラムは、さらに30年後の2016年、中年の犯罪者となってアメリカの刑務所にいます。
 誕生日のその日、殺人犯カラム(ファスベンダー)は死刑の執行を迎えます。薬物を注射され、最期の瞬間を迎えた・・・と思った次の瞬間、自分はまだ死んでおらず、病院のようなところで蘇生したことに気付きます。その場にいたソフィア(マリオン・コティヤール)は、ここがアブスターゴ財団の施設であることを告げ、彼に祖先の記憶に退行する装置アニムスを取り付けます。この15世紀の世界を体験する実験の結果、カラムは間違いなくアサシン教団のアギラールの子孫であることがはっきりします。
カラムの体力の限界を迎え、ソフィアはそれ以上の実験を性急に続けることに反対しますが、アギラールはエデンの果実を手にした最後の人物、とされており、それを手に入れることに執着する財団の総裁でソフィアの父、アラン(ジェレミー・アイアンズ)は、アギラールがトルケマダの一派に捕えられ、火刑に処せられたとされる日付の歴史を再現することをソフィアに急がせます。というのも、アランは実は現代に続くテンプル騎士の一人であり、騎士団総長ケイ(シャーロット・ランプリング)から、まもなく開催される騎士団総会までに成果が出ない場合、財団への財政支出を打ち切る、と通告されていたのです。
一方、カラムは施設内に、かつて母を殺して姿を消した父ジョセフ(ブレンダン・グリーソン)がいることをアランから告げられます。30年ぶりに再会した父から、カラムはあの日の真相を聞かされます・・・。

ということで、トルケマダやムハンマド12世など、歴史上に実在した人物と架空の人物が入り乱れる歴史ファンタジーですが、馬に乗ったり弓を射たり、独特のアサシン・ブレードで戦ったり、とファスベンダーとしても今までで最もトレーニングが厳しかった映画だったそうです。アクションシーンがゲームそのままで再現されます。
当然、スタントの人たちも大活躍で、特にゲーム版での特徴だった、ワシのように高いところから飛び降りるイーグル・ダイブの再現ではデジタル技術は使わず、本当にダミアン・ウォルターズという人が37メートルもの高さから降下して撮影しているそうで、まさにド迫力です。
「マクベス」以来の共演であるコティヤールも、今回は冷静な科学者、という役どころですが、ファスベンダーとは息もぴったり、いい演技をしています。アイアンズとランプリングという2人の大物も抜かりがないです。特に70年代に「愛の嵐」で一世を風靡したランプリングも今や71歳ですが、相変わらずの美しさです。また、父ジョセフ役のブレンダン・グリーソンはハリー・ポッター・シリーズや「オール・ユー・ニード・イズ・キル」にも出ていたベテラン俳優ですが、スター・ウォーズのエピソード7や「レヴェナント」に出演して知名度を上げているドーナル・グリーソンのお父さんだそうですね。
しかし今作で注目なのは、やはり15世紀スペインのシーケンスでして、物語の大半を占める15世紀のストーリーでは、登場人物は皆、よくハリウッド作品でありがちな、なんとなく英語にしてしまうということはなく、スペイン語で押し通しております。素晴らしいですね。こちらでなんといっても光っていたのが、アギラールの仲間でおそらく愛し合ってもいる女戦士マリア役のマリアーヌ・ラベドという人。とにかくこの役柄にぴったりのミステリアスな美女ですが、経歴を調べてみるとスペインの人じゃなくて、ギリシャ系のフランスの女優さんだそうですね。イーサン・ホーク主演の2013年の映画「ビフォア・ミッドナイト」あたりがハリウッド・デビューで、近年、急速に評価が高まっている人だとか。このへんからぐっと出てくるかもしれませんね。
とにかく全編がゴージャスかつ奇抜な映像で埋め尽くされ、ゲームのファンもそうでない人も十分に楽しめる一作でしょう。なんとなくラストは今後も続きそうな感じで終わります。続編でさらに、別の時代を取り上げてくれると嬉しいですね。


2017年3月17日(金)
 先日、板橋区立郷土博物館http://www.k5.dion.ne.jp/~kyoudo/まで足を運びました。現在、同館で開催中の「特別展 武具繚乱 関谷弘道氏甲冑刀剣類コレクションを中心に」を見るためです。
 数年前に亡くなった甲冑コレクター、関谷氏が同館に寄贈した主に江戸期の甲冑の展覧会なのですが、さすがに20領を超える甲冑が並ぶさまは壮観です。鎌倉〜南北朝期の大鎧や胴丸はすでに国宝級、室町〜桃山期の戦国甲冑も今では博物館級となり、現在、一般の骨董市場などで売買されているのは、もはや実際には戦争が行われていない江戸時代に製作された、実用というより財産、贈答品、展示品として作られた甲冑なのですが、それも年々、海外などに流出し、おそらく10年もしたら多くの物が散逸してしまうだろう、と言われています。
 それを危惧した関谷氏は、私財を投じて膨大な江戸期の甲冑を収集したもので、しかし江戸期のこうした遺物は研究が進んでおらず(いまだ売買の対象物で、学者の研究対象になっていないのでしょう)それゆえに、それぞれの甲冑の出自・由来についても、不明瞭なのですが、それが逆に非常に興味深いです。本展の主要な展示物の一つである、長州藩家老・福原家所用の具足と思われる一品も、福原家の定紋ではない卍型の家紋が描かれた佩楯の由来がはっきりせず、その謎解きとして関連の古文書などが展示されており、こうした地道な研究が必要なのだな、と理解できる展覧会です。
 ほかにも彦根藩・井伊家の赤備えの甲冑だとか、土佐藩の上士が幕末になって製作させたらしい非常に珍しい具足とか、さらに足軽用の「御貸具足」とか、骨董としての市場価値はよく分かりませんが、今後、史料性が増していくことが確実なものが多数、展示されています。
 展示品をフルカラーでまとめた95ページもある豪華図録(しかも写真資料のPDFデータをディスクに入れたものまで付属!)が、たった1000円で販売されています。これだけで大変な値打ちものです。公立の資料館でなければ、あり得ない価格設定でしょう。この図録は通信販売もしているので、ご興味のある方は同館のサイトをチェックしてください。
 同店は3月26日まで。月曜休館。午前9時半〜午後5時(入館は4時半まで)。入場無料です。同館の最寄駅は西高島平駅ですが、この駅ではタクシーはつかまえにくく、歩くとしてもかなりアクセス的には遠いので、高島平駅か成増駅からタクシーで行かれることをお薦めします(成増駅からはタクシーで810円でした)。


2017年3月13日(月)
 ホワイトデーという時節柄、今回はドイツのチョコレート「ショカ・コーラScho-Ka-Kola」なんていかがでしょう? これは1930年代から販売されています。コーラの実を混ぜ、通常のチョコレートよりもカフェインが増量されており、このチョコを食べるとすっきり目が覚める、という優れもの。商品名は「ショコラーデ(チョコレート)」と「カカオ」と「コーラ」をつないだようですが、19世紀末から存在したアメリカの飲料「コカ・コーラ」をもじった要素もあるのじゃないか、とは思われます。
 このショカ・コーラは1936年のベルリン五輪で大会公式スポーツ食品として大人気を得まして、その後、ドイツ軍に納入され、戦時中にドイツ空軍のパイロットとか、潜水艦(Uボート)の乗組員、戦車兵といった「きつい任務」の兵士たちに公式食料として支給された「軍用チョコレート」でもあります。たとえば夜の当直勤務などで、眠気覚ましに支給されたわけですね。戦前や戦中のものは、パッケージにドイツ軍の鷲の紋章とか、柏葉のデザインなどが施されたものがあったようです。
 それで、戦後もずっと作られているわけで、日本でもKALDIコーヒーで販売しております。さすがにチョコ好きのドイツ人の作る物。そもそもチョコとして非常においしいです。そして、食べると確かにすっきり、目が覚める感じがします。コーヒーを飲みたいところだけれど時間がない、というような場合に非常にいいですね。


2017年3月06日(月)
 すでに手に取られた方も多いと思いますが、リクエストにこたえて過去の名著を復刊する「復刊ドットコム」により、1975年に刊行された中西立太先生の名作『壮烈! ドイツ機甲軍団』が現代に蘇りました。私も小学生当時、この本を読んで、ミリタリーの世界に興味を持った一人です。そして、今ではその影響で『軍装・服飾史カラー図鑑』とか『軍服の歴史5000年』とかの本を自分で書いているわけです。まさに中西先生のこの本こそ私の活動の原点です。
 中西先生ご本人から伺った話ですが、この『壮烈! ドイツ機甲軍団』は当時、韓国語版の話があり、原画一式を韓国の会社に貸したところ、そのまま立ち消えとなって原画もすべて返ってこなかったので、もう再販は出来ないんです、と仰っていました。今回は、今日まで現存していた本からデジタル技術で復刻したものと思いますが、本当によくやっていただきました! 中西先生はすでに亡くなられていますが、きっとこの復刊を喜んでおられると思います。

2017年3月04日(土)
 発売中の「週刊ダイヤモンド」2017年3月4日号(ダイヤモンド社)の109ページ、ブックレビューBook Reviewsにて、服飾評論家の遠山周平先生が、私ども(辻元よしふみ著、辻元玲子・画)の『軍装・服飾史カラー図鑑』(イカロス出版)をご紹介くださいました。
 「軍装史に関しては日本の第一人者といえる夫妻が3年半の歳月をかけて著した『軍装・服飾史カラー図鑑』は、どのページも眺めているだけで楽しく、また新しい発見がある。ディテールや後ろ姿まできちんと描き込まれた図版と適切な解説文によって、ネクタイ、ドレスシャツ、ジャケット、ボタン、カフリンクスの起源が軍服にあることを知ることができる。デザイナーや服飾関係者が座右に置くべき名資料となろう」という評をたまわりました。遠山先生、ありがとうございました。

2017年3月02日(木)
話題のミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」La La Landを見ました。先月末に発表された米アカデミー賞で13部門14ノミネート(あの「タイタニック」と並ぶ史上タイ記録)され、主演女優賞のエマ・ストーン、監督賞のディミアン・チャゼルなど6部門を制する快挙を成し遂げました。なお、私が見た千葉県市川市のTOHOシネマでは、パンフレットが売り切れとなっておりました。
前作「セッション」で一躍、有名になったチャゼル監督ですが、本当に作りたいのは実は、ミュージカルだ、といって奮闘した結果が今回の大成功。アカデミー監督賞受賞者としては32歳という史上最年少となりました。ちなみに、これまでの最年少者は1931年に第4回アカデミー賞で監督賞を受けたノーマン・タウログ監督。同じ32歳でしたが、チャゼル監督の方が数か月、若いとか。このタウログ監督もチャゼル監督と同様、音楽映画が得意な人で、特に60年代のエルヴィス・プレスリー主演の映画、たとえば「GIブルース」「ブルー・ハワイ」などは、この人が手がけたことで知られています。
ということで、最年少で受賞と聞くと、さぞかしトントン拍子のスピード出世、という監督なのかと思ってしまいますが、実は決してラッキーなだけの人ではなく、若いころにはジャズ・ミュージシャンを目指して挫折。その後は名門ハーバード大学に進み、映画の脚本を書くようになったけれど、あくまでも頼まれ仕事ばかり。そうした苦い経験をもとに自分で書いた脚本を売り込んで「セッション」の成功をつかみ、さらに「今時、ミュージカル?」という疑問の声を抑えて、執念でこの作品を作ったということで、かなり根性の人です。確かに、「レ・ミゼラブル」や「オペラ座の怪人」のように、すでに舞台でヒットして定評のあるミュージカル作品の映画化は近年でも珍しくありませんが、映画オリジナル脚本のミュージカル、というのは非常にまれです。
なお、本作はオペラのようにあらゆるセリフを楽曲にしている作品ではなく、普通のストレートな芝居のパートと、音楽のパートが交差する作品ですが、この辺が実に巧妙に使い分けされています。厳しい現実を描く通常のパートと、夢の世界を描くファンタジックなミュージカル・パート、というのが意識して配置されており、これが最後まで効果的です。
本作は、夢をつかもうと悪戦苦闘する売れない女優と、世間に才能が理解されないジャズ・ピアニストの姿が描かれますが、このへんも監督自身の下積み経験がにじみ出ているように思われます。「それでも、いつかは自分の夢をかなえたい」と思って奮闘している人すべてへの応援歌のような素晴らしい作品ですね。また、主演のエマ・ストーンも「アメイジング・スパイダーマン」で注目されるまでは苦しいオーディション巡りの日々だったそうで、その経験も大いに役作りに反映しているように見えます。本作は当初、あのエマ・ワトソンがヒロインという案もあったそうですが、結果から見てエマ・ストーンで正解だったように感じます。そういえばエマ・ストーンの方は、ギレルモ・デルトロ監督の「クリムゾン・ピーク」を主演する予定だったものを降板したことがありました。あちらはミア・ワシコウスカで正解だったように思われます。まあ、こういう役者と監督、作品の出会いも運命的なものといえますね。
ところでこの映画、恋愛ドラマとしてみると、けっこう切ない内容でもあります。全体に映像作りや音楽、色彩、衣装など、現代を扱っていながらどこか古き良き時代のノスタルジーを掻き立てる作品でもあり、あの名作ミュージカル映画「シェルブールの雨傘」にどこか似ている、という声が、見た人から上がっているそうですが、最後まで見るとそのわけが分かります。季節ごとに話が移ろう構成とか、何よりラストシーンの後味が非常に似ているのです。そして、なるほど、人生とは、いたるところで分岐点があり、そこで自覚的に動けた人が夢に近づいていけるのかもしれない。しかしまた、そこで何かを犠牲にしてしまうかもしれない。いろいろなことを考えさせられる作品です。ディミアン・チャゼル監督、後生おそるべし。32歳にして人生、ここまで達観できているとは・・・。
言うまでもないですが、アカデミー作曲賞、主題歌賞をとった音楽が本当に素晴らしい! 全英、全米のヒットチャートでそれぞれ1位、2位となっているそうで、これは映画サントラ盤として、やはりミュージカル映画の傑作「レ・ミゼラブル」以来のヒットです。あえていって今時、はやりの映画音楽然としたスコアからすれば、非常にキャッチーで耳につく旋律は、それこそ「シェルブールの雨傘」などの時代の作品を想わせますが、それが実に素晴らしく、感動的です。また、挿入曲としてジャズの名曲が登場するのはもちろん、冒頭のチャイコフスキー「1812年」に始まり、往年のa〜haのヒット曲「テイク・オン・ミー」やら、日本の滝廉太郎の曲まで使用しており、エンドクレジットで紹介しているので、いろいろ注目です。さらに、グラミー賞歌手のジョン・レジェンドがミュージシャン役で出演しており、「スタート・ア・ファイアStart A Fire」という曲を熱唱しています。これがまた、作品内では、主人公が正統派ジャズではない曲を不本意に演奏させられている、というシーンであるにもかかわらず、非常に名曲でカッコいいです。
作品の最初の部分、実際に高速道路を借りて、渋滞する車の屋根に上ってテーマ曲を歌う群衆、というシーンに度肝を抜かれます。あのつかみ方で、監督の才能がいきなり垣間見えますね。それから、ほかに驚くべき点として、ピアニスト役のライアン・ゴズリングはすべてのシーンでピアノを実際に弾いているそうで、ほんの3か月ほどの特訓であれを弾いているとは、恐るべき努力と才能です。また、ゴズリングもストーンも、演技を撮影しながら実際に歌って生録りを敢行したそうで、これは「レ・ミゼラブル」でも行われた手法ですが、事前に録音した音に口パクするのとはわけがちがいます。事実上、舞台でライブを見るような臨場感ですが、当然ながら出演者は大変です。まあ、今年はちょっとトランプ大統領がらみで政治的な側面も見え隠れしたアカデミー賞でしたが、ああいう背景がなければ、本作はもっと受賞数を増やしたのではないかと、その点が残念に感じます。

高速道路の渋滞の中、オーディションのセリフ覚えで夢中な下積み女優のミア(エマ・ストーン)の愛車プリウスを、売れないジャズ・ピアニストのセス(ライアン・ゴズリング)のオープンカーが追い抜きます。「何よ、感じの悪いやつね」。2人の出会いは最低でした。
ミアはカフェでアルバイトしながら、映画やテレビドラマのオーディションを受けては落選の連続。その日もオーディションを受けて手応えなしで、同じ女優志望のケイトリン(ソノヤ・ミズノ)らと、業界の関係者にコネを作るためパーティーに乗り込みますが、脚本家を自称する男グレッグ(フィン・ウィトロック)にしつこく言い寄られた以外、収穫なし。おまけに愛車を駐車違反で警察に移動され、失意のまま徒歩で帰宅することに。しかしそんな中、素晴らしいピアノの音が聞こえてきます。ふと通りすがりの店に立ち寄ると、演奏していたのはセスでした。
一方のセスは、姉ローラ(ローズマリー・デウィット)から「堅実な仕事に就きなさい」と諌められながら、ジャズ専門の店を開くという夢を諦めきれません。年末のその時期、クリスマス・ソングを弾くように店のオーナー、ビル(J・K・シモンズ)に命じられていたのに、勝手に自分の好きな曲を弾いたことで、その場で解雇。ミアは「あなたの演奏に感動した」と近寄りますが、セスはふてくされて彼女を無視し、店を出て行ってしまいます。こうして、2人の偶然の再会も最悪なものでした。
ところがしばらく後、ある野外パーティーで演奏しているコピーバンドの演奏に目を留めたミアは、キーボードを弾いているのがセスだと気付きます。この会場でも、グレッグにつきまとわれていたミアは、セスに友人の振りをしてもらい、2人で会場を抜け出します。
ここまで、ずっと好感度ゼロでありながら、偶然の出会いが何度も続いたことで、急速に感情が高まっていくミアとセス。お互いに売れない女優とピアニストである身の上で、夢を語り合ううちに意気投合していき、すぐに愛し合うようになります。
だが、そのままでは現実は何も変わりません。己が信奉する純粋なジャズだけを演奏する店を開きたいと考えるセスは、資金を貯めるために、旧友のキース(ジョン・レジェンド)が結成した新しいR&B系のバンドに参加。初めは乗り気ではなかったものの、このバンドが思いがけない成功を収めてしまい、長いツアーに出ることになります。ミアの方も、自分で脚本を書いた独り芝居を自費で上演し、一世一代の大勝負に出ようとします。こうして、徐々に2人の進む道は離れていきます・・・。

「セッション」のJ・K・シモンズが、チョイ役ながら顔を出しているのが嬉しいですね。それから、ヒロインの友人役のソノヤ・ミズノは東京生まれの日系英国人で、これまではモデル業中心でしたが(ユニクロの広告などでも活躍していました)本作が大注目となったので、映画界での活動も増えてきそうです。
ということで、この作品は映画館で見るべき一作だと思いました。もちろん、このような話題作は遠からずDVDになり、テレビでも放映するでしょうが、これほど計算されつくした映像と音楽を味わうには、テレビではいかにももったいないですね。


2017年2月27日(月)
 さて、美しい日本庭園の前にたたずむ駐留米軍の兵隊さん・・・? いいえ、これは私です(当然ですか)。そして、この場所はどこかといえば、赤坂のホテルニューオータニの日本庭園です。実はこの庭園は、熊本城主として有名な加藤清正の屋敷の庭だったそうです。その後、今度は大河ドラマで話題の女性城主・井伊直虎や、幕末の大老・井伊直弼で著名な彦根藩主・井伊家の中屋敷となったとか。実は最近まで、そんなに由緒ある場所とは存じませんでした。
 私は先日、年に1回の人間ドックを受けに、ニューオータニにあるクリニックに行ったのですが、その際に撮影しました。
 ついでに、ホテル地下のレストランに立ち寄ったのですが、これがすごいところに入ってしまいました。ものすごいステーキが出てきました。もちろん、かなり高かったのですが、ありがちな話で、つい入ってしまったので、今さら引き返せず・・・とはいえ、それで後悔しない素晴らしいお肉でございました。

2017年2月24日(金)
「ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち」Miss Peregrine's Home for Peculiar Childrenという映画を見ました。ティム・バートン監督の新作です。なんというか、X-Menとハリー・ポッターを足して、そこにタイム・ループもの(特定の同じ時間を何度も繰り返す)の要素を加えた、という感じの非常に独特の世界観です。話の内容的に、映像化がかなり難しそうなものなのですが、随所に工夫が凝らされており、映画として非常に面白いと思います。タイム・ループものでは、少し前の「オール・ユー・ニード・イズ・キル」などもありましたが、今回はダーク・ファンタジーとしての持ち味と、SF的な設定の融合が興味深いです。
 原作は2011年に発表されてベストセラーとなったアメリカの小説で、大筋はそのままなのですが、映画化に当たってかなり変更している点もあるそうです。現代のアメリカと、第二次大戦中の英国ウェールズが主要な舞台となります。その時代設定が原作とはちょっとずれているのですが(原作では1940年、映画では1943年)、ラストシーンの設定のための変更らしく、なかなかよく考えられております。
 
 2016年、アメリカ・フロリダに住むジェイク(エイサ・バターフィールド)は、周囲となじめない16歳の孤独な少年です。学校では友達もできず、家庭では両親とも疎遠。祖父エイブ(テレンス・スタンプ)に育てられたおじいちゃん子のジェイクは、ある日、祖父の身に異変が起きたことを知って、アルバイト先の上司シェリー(オーラン・ジョーンズ)と共にエイブの家に駆けつけます。
 家は荒らされ、エイブは両目をくりぬかれて瀕死の状態で倒れていました。彼はジェイクに、ウェールズのケインホルム島に行き、孤児院の管理人ミス・ペレグリンに会うように言い残して死亡します。その場で、腕の長い不気味な化け物の姿を見たジェイクは、拳銃を携帯していたシェリーに射撃するように言いますが、シェリーには化け物の姿は見えず、銃弾も命中しませんでした。
祖父の無残な死にショックを受けたジェイクは、両親の勧めで精神科医のゴラン医師(アリソン・ジャニー)の診療を受けることになりますが、もともと、浮世離れしたおとぎ話のようなことばかり語るエイブと、そのエイブに育てられたジェイクの正気を疑っていたジェイクの父親フランク(クリス・オダウド)は、今回の件でもエイブの言うことなど真に受けるはずがありません。やがてジェイクの誕生日に、叔母スージー(ジェニファー・ジャラッカス)からエイブの形見の詩集を渡されたジェイクは、その中に挟まれていた書簡から、祖父エイブが実際にケインホルム島のミス・ペレグリンと最近まで交流していた事実を知ります。
第二次大戦中に、エイブはミス・ペレグリンが管理するケインホルム島の孤児院で、奇妙な子供たちと生活していた、と聞かされて育ったジェイクは、それまでその話を作り話だと思っていましたが、それが実話であるかもしれないと思い立ち、ウェールズに行くことにします。意外なことに、現地に行って現実と空想の整理をすることは、精神的に良いことだ、とゴラン医師も後押ししたため、父フランクと共にジェイクはケインホルム島に渡ることになります。
島で、口実を付けてフランクと別行動をとったジェイクは、地元の少年たちの案内で孤児院の廃墟にたどり着きます。そこは大戦下の1943年9月3日に、ドイツ空軍の爆撃で破壊されたのですが、やがてそこで、かつてエイブから聞いていた奇妙な子供たち――空気より軽い少女エマ(エラ・パーネル)や、手から炎を発するオリーヴ(ローレン・マクロスティ)、透明人間のミラード(キャメロン・キング)といった人物に実際に会うことになり、1943年の世界に行き着きます。孤児院は爆撃前の姿で立っており、ジェイクを出迎えたのは学院長ミス・ペレグリン(エヴァ・グリーン)でした。超能力を持つ奇妙な子供たちを世間から隔離するために、安全な一日を選んで「ループ」を作るのが、ペレグリンのような鳥に変身できる種族「インブリン」の仕事であり、1943年9月3日を数えきれないほど長い年月、繰り返しているというのです。ドイツ軍爆撃機の爆弾が直撃する直前で、前の日に戻る・・・永遠に続く9月3日。しかしそれは、単に世間の人とドイツ軍から子供たちを守るだけではなく、もっと別の脅威からも守る秘密がミス・ペレグリンにはあるようです。祖父エイブが異常な死に方をした、と聞いたペレグリンと子供たちに緊張が走ります。
やがて、ジェイクは奇妙な子供たちを狙う恐怖の敵バロン(サミュエル・L・ジャクソン)の存在を知り、祖父の死にそのバロンと、彼が従える化け物ホローガストが関わっていた事実を知ります。近隣のループ地ブラックプールがバロンたちに襲撃され、管理人ミス・アヴォセット(ジュディ・デンチ)が負傷して逃れてくると、事態は緊迫化。さらに、親しくなったエマから「普通の人はループの世界に入れない」と聞かされたジェイクは、自分も「奇妙な子供たち」の一人であり、特殊な能力を持っていること、祖父エイブもそうであったことを悟りますが・・・。

ということで、物語は思いがけない方向に急速に動いていきますが、相当に複雑なお話を力技でまとめ上げている感じ。さすがティム・バートンなのですが、しかし、案外にティム・バートン臭さはない感じもします。そこはやはり、今回は常連ジョニー・デップが出ていないからでしょうか。
エヴァ・グリーンが何と言ってもはまり役です。尋常でない人物像ですので、このぐらい存在感がある人でないと全く務まらないでしょう。現在19歳のエイサ・バターフィールドは「縞模様のパジャマの少年」で見出された逸材で、マーティン・スコセッシ監督の「ヒューゴの不思議な発明」でブレイクし、「エンダーのゲーム」でも主演、そして本作と、まさに昇り竜の若手注目株。繊細な演技が要求される本作でも、見事に演じきっております。ヒロイン格のエマを演じたエラ・パーネルは「キック・アス/ジャスティス・フォーエバー」などに出た後、ディズニーのヒット作「マレフィセント」でアンジェリーナ・ジョリーが扮した魔女マレフィセントの少女時代を演じて、一躍注目されました。こちらも1996年生まれで、これから有名になりそうです。そして、重鎮サミュエル・L・ジャクソンとジュディ・デンチが作品をしっかり支えています。こういうファンタジーに説得力を与えるのは、実力派の大物俳優の存在です。いい仕事をしています。その意味では、二つの時代をつなぎ全体のカギを握る祖父エイブ役のテレンス・スタンプも重要ですが、1960年代から活躍する大ベテランの演技が光ります。また、冒頭で活躍するシェリー役のオーラン・ジョーンズは「シザー・ハンズ」や「マーズ・アタック!」にも出ていたバートン監督とは縁の深い女優さんです。
ところで、こういうファンタジー映画というと、第二次大戦下の英国が舞台、というものがけっこう多いですね。そして、ドイツ空軍が必ず登場します。今回もハインケルHE111の編隊がやって来て、爆弾を落としていきます。まさに今回の隠れた主役です。ちょっと思ったのですが、ハインケルの爆弾倉は縦に爆弾を積む独特の形式だったような気がするのですが、この映画では横置きのようで、あのへんはどうなんでしょうか。
ほかにも、戦時中に軍に入隊したエイブがミス・ペレグリンに電話をかけてくるのですが、その背景で星の徽章を付けた軍用車が走っていたり、第二次大戦中のアメリカ海軍の戦艦の艦上シーンで整列した水兵を将校が検閲していたり、と細かいところで、ほんのワンシーンでとにかく手を抜かないのが素晴らしい。おや、なぜこんなシーンで日本の紙幣が映るのだろう、と思っていると、その後で東京に話がつながっていくとか・・・実に芸が細かいです。一瞬も見逃せません。後で何回も見直す必要があるような、凝った作品です。


2017年2月18日(土)
 このほど私、50歳となりました。半世紀です。一昔前の松本清張さんの小説で、登場人物の描写として「もう50歳の老人だが」と書いてあったように記憶しています。平成の初めごろでも、会社の定年はまだ55歳が普通でしたよね。サザエさんの父、波平さんが、現役会社員(ということはまだ50歳代)なのにあれほど老人のように描写されているのも、つまり、ほんの数十年前まで50歳は立派な老人であった、ということを意味しているようです。
 それで、銀座・松屋百貨店のレストラン「イ・プリミ」で、サプライズとしてお祝いのデザートを出してくれました! 以前にちょっと「もうすぐ50歳なんだよね」と言ったのを、覚えていてくださったようです。イ・プリミの皆様、ありがとうございました!

2017年2月16日(木)
 日中は春めいた陽気になってきましたね、しかし朝晩はまだまだ寒いので、皆さまご自愛ください。さてそれで、私はこのほど東京・上野の東京国立博物館・平成館で開催されている「特別展 春日大社 千年の至宝」というものを見てきました。
 春日大社(奈良市)と言えば、「平安の正倉院」という異名があるほど、平安〜鎌倉、室町期の国宝・重文クラスの秘宝がひしめいていることで有名。特に歴代の公家や武将からの崇敬を集め、彼らが奉納した昇殿用の飾刀や、太刀、甲冑などは国内でも有数のコレクションを所持しています。今回はそれらを一堂に、おしげもなく展示してあるのですね。
 特に、展示物の入れ替えの関係で、初めのころの展示品と、後半の展示品は変わってしまうのですが、2月14日〜19日の間の6日間だけは、今回の目玉である国宝の4領の大鎧・胴丸が並ぶという、夢のような構成になっております。
 とにかく、その4領の甲冑はド迫力です。鎌倉期大鎧の作例として非常に有名で、かつての説では源義経が奉納したともいわれていた赤糸縅の大鎧・梅鶯飾および竹虎雀飾の2領は、このへんの時代が好きな方は何度も写真は見ていると思いますが、実物が目の前にあるとなんとも感無量です。また大袖付きの黒韋縅の2領の胴丸も、奇跡のコンディションです。まるで最近、製作されたような生々しさに目を見張ります。春日大社でも、この国宝の4領の鎧を並べて見せることはまずないそうで、きっと今回限りじゃないかと思われます。
 ほかにも、平安期の華麗な飾刀や、鎌倉期の毛抜型太刀、兵庫鎖太刀など、まだ後の時代の日本刀の形式になる前の古式な刀が多数、陳列されており、いやもう、平安〜鎌倉時代の源平合戦ごろが好きな人にはたまらない展示ですね。
 本展は当日券1600円で、3月12日(日)まで(月曜休)。午前9時半〜午後5時(入館は午後4時半まで)となっております。


2017年2月14日(火)
今日はバレンタインデーということで、KALDIコーヒーで見つけたのが個性的なロリポップ・チョコの数々。
 スター・ウォーズの人気キャラBB8型のもの、あひるさん型、それにちょっと気が早いですがおひな様型、というものもありました。

2017年2月10日(金)
 「ハンガー・ゲーム」で知られるゲイリー・ロス監督が、マシュー・マコノヒー主演で製作した映画「ニュートン・ナイト/自由の旗をかかげた男」FREE STATE OF JONESを見ました。大物俳優の新作なのに、都内でも2か所でしか公開されていないので、私個人としてはかなり遠出となる新宿・武蔵野館まで足を運びました。この映画館がまた、規模の小さいシアターでして、ちょっともったいないな、というのが正直な感想。
 とにかく、ほとんどの日本人が知らない人物の物語で、そしてご当地のアメリカでもあまり知られていない、というこのお話。映画としてどうこういう前に、まずはこの史実を知ってほしい、と強く思いました。南北戦争時代のアメリカ南部が舞台なのです。
 南北戦争という題材そのものが、日本ではいまいち、関心を引くとは言えません。その理由の一つとして、アメリカがこの内戦をしている時期、日本も幕末の動乱から戊辰戦争へと向かう時代であり、外国の戦争より国内の戦争に目が向いていた。それは当時もそうだったし、今でもそうだ、ということだと思われます。ただ、南北戦争のために、もともとアメリカ海軍のペリーが来航したことで始まった幕末の動乱に、結果としてアメリカが介入できなかったという意味合いがあり、さらに、南北戦争の後に余剰となった武器や軍装品が、戊辰戦争時の日本に大量に送られた、という点でも、大いに日本史にかかわりがある歴史イベントだと考えられます。明治初期、西郷隆盛が建軍した初期の日本陸軍の軍装に、アメリカの軍装、特に北軍の軍装の影響が大きいのも、間接的な影響と言えましょう。
 さて、この作品は、南北戦争のさなかに、戦争に嫌気がさして南軍から脱走したミシシッピ州ジョーンズ郡の貧しい白人農民ニュートン・ナイトNewton Knight(1837年〜1922年)が、同じく南軍の脱走兵士や、黒人の逃亡奴隷たちを率いて、南軍にも北軍にも属しない、人種差別や貧富の差を認めない独自の政体「ジョーンズ自由州」を樹立していた、という驚くべきテーマを扱っております。いわば正式な奴隷解放よりも前に、すでに実践していた人物が実在した、というわけです。
 しかし、こういう人物の存在は、敵対勢力だった南部側はもとより、奴隷解放の手柄のお株を取られてしまう北部側から見ても、邪魔なわけでして、そのためにこの自由州と、ニュートン・ナイトの名は正統アメリカ史から黙殺されてきたのだそうです。実際、ナイトの戦いは戦争の間だけで終わらず、奴隷解放と南北戦争の終結後も、実際には南部で続いていた「年季奉公」という名の事実上の奴隷制度や、法律的には認められた黒人選挙権の事実上の否定、さらにKKK(クー・クラックス・クラン)のような白人至上主義者による黒人の虐殺、私刑・・・こういったものとも戦わなければなりませんでした。そういう圧力の中、元奴隷の黒人女性を内妻とし、彼らの教育や、参政権の確立にも尽力して85歳で亡くなったナイトという人は、まことに強靭な人物だったのでしょう。
 そして、2017年の今、こういう作品を見ると、いわゆるトランプ大統領の支持層の中に今も見え隠れする白人至上主義者の存在があまりにも露わに見えます。ああ、もう150年も前から続いている「ニュートン・ナイトの戦い」は今でも終わっていないのだな、と感じるわけです。
 本作は、2016年に公開後、一部で大きな反響を得て、アカデミー賞も有力視されていたのですが、結局、2017年の賞レースにはノミネートされませんでした。思うに、あまりにも生々しい題材なので、今のアメリカ人には直視できなかった部分もあるのではないか、と思っております。また、史実としてはどこまでが本当にあった話なのか、ジョーンズ自由州なるものの実態という点で、学術上、いろいろ問題もあるともいいます。ただ、本作でも好演しているマハーシャラ・アリは、「ムーンライト」でアカデミー助演男優賞にノミネートされているそうですね。この人は「ハンガー・ゲーム」シリーズでも有名で、今後も活躍してくれそうです。

 1862年、南北戦争のさなか。南軍衛生兵として従軍するニュートン・ナイト(マコノヒー)は、「黒人奴隷を20人以上所有している者は兵役を免除する」という南部の新法に激しく憤ります。彼のような、奴隷など持っていない零細農家には、もともと何の関係もない戦争です。金持ちのために貧乏人が戦う、というこの戦争に疑いを持ったナイトは、わずか14歳で徴兵された甥っ子のダニエル(ジェイコブ・ロフランド)が目の前で戦死するのを見て、ついに脱走を決意。縛り首になるのを覚悟で、ダニエルの遺体をジョーンズ郡に運びます。
 しかし、久々に戻った故郷では、情け容赦なく物資や食料を徴発していく南軍補給官バーバー中尉(ビル・タンクレディ)の暴虐により、疲れ切った女性や子供の姿がありました。やがてバーバーに銃を向けたナイトはお尋ね者となり、妻セリーナ(ケリー・ラッセル)からも見放されて身を潜めることになります。一人息子が病気のときに介護して救ってくれた黒人奴隷の女性レイチェル(ググ・バサ=ロー)の手引きで、沼地の奥にたどりついたナイトは、逃亡奴隷のモーゼス(アリ)たちと出会います。運命を諦めきっているモーゼスたちに武器を調達したナイトは、彼らを追ってきた奴隷捜索隊の連中を血祭りに上げます。
 彼らの蜂起を知って、各地から集まってきた逃亡奴隷や脱走兵たちが集結し、軍隊規模にまで大きくなっていきます。激戦の末、バーバーの上官である南軍の残酷な指揮官、フッド大佐(トーマス・フランシス・マーフィ)を処刑したナイトたちは、さらに南軍の拠点を占領して1864年、ジョーンズ自由州の独立を宣言しますが、それは終わりなき戦いの序章にすぎませんでした。1865年、戦争が終わって、憲法の改正により南部の黒人奴隷はすべて解放されたはずでしたが・・・。
 さらに85年後の1950年代にもなって、また新たな問題が起きたことを映画は紹介します。ナイトの子孫であるデイビス・ナイト(ブライアン・リー・フランクリン)が、白人女性と婚姻したことが違法として、デイビスは逮捕されてしまいます。彼はナイトとレイチェルの間に生まれた二男の子孫であり、8分の1が黒人の血統である、よって白人との婚姻は違法であるというのです。この時代になっても、南部の州法では、白人と異人種との結婚は許されない犯罪行為だったのです・・・。

 凄惨な戦闘シーン、残虐行為や私刑、といったシーンが全編に出てくる重い作品なのですが、不思議とマコノヒーが演じていると、このどこか毅然としつつも飄々たる人物が映画の中心にいることで、単なる残酷映画じゃない説得力が生まれる感じがしますね。おそらくこの人が主演でなければ、うまく映像化できなかった作品じゃないでしょうか。モーゼス役のアリもいい味を出しており、レイチェル役のググ・バサ=ローもいいですね。普通にやってしまうと見るに堪えない陰気な話になりかねない本作を、俳優陣の持ち味で見事に作品として成り立たせている感じです。
 この作品で見る限りですが、ナイトという人は、間違っているものを見ると黙っておられず、困った人を見ると助けたくなってしまう、それで次々に面倒に巻き込まれてしまう性分の人に見えます。しかし、いつしか不満分子が彼の下に自然に集まってきて、反乱軍の大将に祭り上げられてしまう、というタイプのリーダーのようです。あえて言って、欧州ならロビン・フッド、日本史上でいえば平将門とか、西郷隆盛のような人物ですね。何か自覚的に戦略を描いたり、仕掛けたりしたわけではなく、時代が彼を求めていて、そのように自然に動いたらこうなった、ということ。その、いつの間にか、こうなっちゃったんだよ、というのを表現するには、器量の大きさ、人の好さ、自然さがないといけません。マコノヒー以外に、これほど的確にこれを演じられる人もいないでしょう。なお、本作でのナイトの主張は、人種問題よりもむしろ、貧富の格差の問題の方が前面に出ており、見ようによっては共産主義的な考え方に近いもののように描かれていますが、実在のナイトがそうであったのか、は私には分かりません。
 南軍の軍装が丁寧に再現されています。通常、南北戦争というと勝者である北軍側の描写が多く、その意味で、南軍側から描いた非常に貴重な映画です。私も、当時の南軍の灰色の軍装が、オーストリア帝国軍のものの影響を強く受けていたことは知っておりましたが、星章を着けている佐官以上の服装は調査したことがありますが、尉官以下についてはよく承知しておりません。この映画では、将校の下襟は黄色であったり、下級将校は襟にドイツ風のリッツェンを付けていたりするなど、軍服のディテールに目を奪われました。
 ところで、ナイトたちにしても、敵対する連中にしても、この映画の世界で物を言うのは、最後は銃なのです。要するに力こそ正義。たとえ黒人奴隷であっても、銃を持って武装していたら相手も言うことを聞くしかない。結局、西部劇の世界です。選挙の投票という最も民主的であるべき場でさえ、妨害する勢力も、投票しようとする側もどちらも銃を構えて恫喝しあうシーンがあります。南北戦争で銃器の扱いに手慣れた連中が、そのまま戦後も銃を構えた正義を主張し続けたのが西部劇的な世界で、いわば戦国時代の後に刀狩をしなかったらどうなったか、という歴史なのだと思います。アメリカ人が、今に至るまで銃による正義を主張し続けるのはなぜか、というのも、このへんに原点があるのだろうという感想も抱きました。
 アメリカ人が長らく自慢してきた自由とか平等とか、民主主義とかいう観念が一体、なんであるのか。外国人である我々から2017年の現代の目で見たときに、それが非常に綺麗ごとと矛盾に満ちたおかしなものに映るわけですが、歴史的に紐解くことで、もうこのへんからさほど進歩していないのだよ、という描き方をしたのが本作だろうと思います。このような時代に一石を投じた監督と出演者に、敬意を表したいと思いました。おそらく、アメリカの一部の人たちは、この作品の内容に反発したのではないかとも想像されます。
 せっかくこういう作品を日本でも公開しているのですから、少しでも多くの方に見てほしいと思いました。どう感じるのであれ、問題作であることは間違いないです。また、私個人としては、劇映画としても非常に見応えある一作だったと思います。


2017年2月05日(日)
 黒澤明監督の代表作を一つ挙げろ、といわれれば、人それぞれでしょうが、1954年の「七人の侍」を推す人は多いでしょう。私は個人的に、黒澤監督は特に戦国時代ものを撮るときが最も面白い、というのが持論でして、「七人の侍」か「隠し砦の三悪人」か「影武者」か、と感じております。おそらく、西部劇のような作品を日本で撮るなら、背景としては戦国時代じゃないのか、というのがあると思います。アウトローが跋扈していておかしくない時代、です。同時に、黒澤作品と言えばこの人、三船敏郎さんが一番、輝くのも戦国ものと思われるのですね。「七人の侍」はまた、Seven Samuraiの名で国際的にも有名であり、多くのハリウッド監督にも影響を与えたと言われます。先日のスター・ウォーズ新作「ローグ・ワン」の監督も、徐々にすご腕の仲間が集まってチームを組み、絶体絶命の困難な任務に立ち向かう、という要素で「七人の侍」を意識した、と発言していたようですね。
 それで、公開当時、その「七人の侍」に惚れ込んだ名優ユル・ブリンナーがリメイクに乗り出し、自ら主演してこれも西部劇史上に残る名作となりましたのが、1960年の「荒野の七人」The Magnificent Sevenだった次第です。こちらは、その時点でほぼ無名の新人だったスティーヴ・マックイーン、チャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーン、ロバート・ヴォーンらの出演者が本作を契機に人気を得て、その後、そろって大スターになりました。
 そしていま、21世紀になってこの原案をそのままに、アントワン・フークワ監督の手で新作西部劇「マグニフィセント・セブン」The Magnificent Sevenが制作される、という一報を聞いて驚いたものです。ということで、見に行って参りました。

 南北戦争の余韻が残る1879年、アメリカ西部の小さな町ローズ・クリーク。この町にサクラメントの悪徳資本家ボーグ(ピーター・サースガード)が目を付けました。近くにある金鉱山の経営のため、この町を乗っ取って独り占めにし、拠点とする計画です。開拓した住民たちは3週間以内に立ち退くように強要されました。勇気ある青年マシュー(マット・ボマー)は抗議の声を上げますが、ボーグに射殺されてしまいます。
 マシューの妻、エマ(ヘイリー・ベネット)は、友人のテディ(ルーク・グライムス)と共に、ボーグの横暴から町を救ってくれそうな腕利きのガンマンを探すことに。そしてある町で、見事にお尋ね者を始末したチザム(デンゼル・ワシントン)を見て、懇願します。初めは取り合わなかったチザムですが、ボーグの名を聞くと心が動き、エマたちの力になることを約束します。
 さらに、チザムが追っていたお尋ね者のバスケス(マヌエル・ガルシア=ルルフォ)、早撃ちの名手でカードと女が好きなファラデー(クリス・ブラット)、南北戦争時代からのチザムの知人で、かつて南軍きっての狙撃兵だったグッドナイト(イーサン・ホーク)、その相棒でナイフの使い手である東洋人ビリー(イ・ビョンホン)、往年はインディアン狩りで名を上げたものの、今では時代が変わり失業している怪力男のジャック(ヴィンセント・ドノフリオ)、さらにひょんなことから仲間に加わる一匹オオカミのコマンチ族戦士レッド・ハーベスト(マーチン・センズメア)が集結し、まずはローズ・クリークを占拠しているボーグの手下、22人を血祭りに上げます。
 町の人々は怯えつつも、頼もしい7人のガンマンの登場に勇気を振り絞り、ボーグと闘うことを決意。
 しかし、怒りに燃えたボーグは百人を超える大軍を編成し、ローズ・クリークを襲撃することにします。決戦まで残された時間は1週間。7人のガンマンと、町の人々の運命やいかに・・・。

 というようなわけで、大筋の所では「七人の侍」「荒野の七人」と変わらないわけですが、細かいところはけっこう相違します。中心人物チザムが黒人である、というだけでなく、メキシコ人のバスケス、東洋人のビリー、インディアンのレッド・ハーベストまで参加してまさに多人種軍団になっています。あえて分類すれば、7人のうち4人が有色人種、というわけで、現代的な西部劇解釈、といえるかと思います。時代考証的には、南北戦争が終わり、奴隷解放令が出た後の1870年代末なので、黒人のガンマンがいてもありえない話ではないし、日本もすでに明治時代となっている時期、ビリーがどこの出身か明言されませんが、このぐらいの時代になると中国、韓国、日本などから来た東洋系のガンマンがいても決しておかしくはない、ということです。が、実際にそういうことがどの程度あり得たか、というとそれはまた別問題で、やはりこのあたりは、リアリティーと言うより、自身も黒人であるフークワ監督の意識、というのも反映しているのかもしれませんけれど、しかしパンフレットによれば、監督も出演者も、そんな人種的なことはあまり意識しておらず、ひたすら娯楽作品として面白い7人の組み合わせを考えたところ、いろいろな人種になった、と言っているようです。実際、フークワ監督の「トレーニング・デイ」でオスカー受賞したデンゼル・ワシントンがここで中心人物として起用された、というのは、あくまでも監督の人脈の中で最高の俳優を求めたらこうなった、ということなのかもしれません。
 今作が、二つの原典と違う点で言えば、経験の浅い若造、というのが7人の中にいません。「侍」における勝四郎、「荒野」におけるチコにあたる人物です。彼らは町の農民の娘と恋に落ちる、という話があったんですが、今回はそのへんバッサリとありませんし、必然的に未熟な若者の成長物語という部分もありません。それから、やはり「荒野」ではチコが担っていた部分と思いますが、「侍」で三船が演じた菊千代のような型破りな人物、というのもいません。まあ今作ではジャックがいくぶん、そうなのかもしれませんが、菊千代の人物像が「侍」で体現しているものが、いかに作品を深くしていたか、というところを思うに、ちょっと今作は物足りない感じもあります。ただ、そういう町の人との関わり的な部分をカットし、戦闘シーンを増量したことで現代的なテンポの映画になっている、のも事実なので、このへんは配分が難しいところです。
 一方で、旧作へのリスペクトという面も大いにあり、特にチザムが全身黒ずくめの衣装であることは、明らかに「荒野」でユル・ブリンナーが演じた7人のリーダー、クリスの影響でしょう。コマンチ族戦士の名前「レッド・ハーベスト」は、ダシール・ハメットのハードボイルド小説『血の収穫』Red Harvestに由来しますが、実はこの小説は、黒澤明監督の別の名作「用心棒」(1961年)の原案の一つとされています。
それより何より、本作では最後の最後になって、「荒野の七人」のあの1960年のテーマ曲(エルマー・バーンスタイン作曲)が思い切り、流れます。ずっと、この有名なテーマ曲をマイナー調にしたような曲が作中で流れていたのですが、やはり本歌取りだったのですね。ちなみに本作の音楽を担当したのはジェームズ・ホーナー。これまでどんな作品の曲を手がけたかといえば、「タイタニック」「アバター」「コマンドー」「コクーン」「マスク・オブ・ゾロ」「トロイ」「アポカリプト」「薔薇の名前」「フィールド・オブ・ドリームス」「グローリー」「ブレイブハート」・・・とまさに巨匠中の巨匠ですが、2015年6月に飛行機事故で亡くなり、本作が彼の遺作となってしまいました。
 「七人の侍」が西部劇と決定的に異なるのは、封建時代の日本の侍と農民は身分違いであり、農民が金で武士を雇用する、などというのが本来は非常識。そもそも、そこを乗り越えて共闘することが難しい、という要素です。ここがストーリー的にも面白いわけですが、やはり西部劇だとそのへん、あまり深くならないのは致し方ないですね。別にガンマンと町の農民で、どちらが偉い、というわけでもありませんので。
 ともかく、フークワ監督もデンゼル・ワシントンも、「この時代に、今後、西部劇が作れるかどうか分からないから、とにかくやった」と発言しているようです。本当にそれはその通りで、特撮が通用せず、ひたすらきついスタントやトレーニングで昔ながらの撮影をするしかない西部劇は、なかなか新しい作品が作られないジャンルとなってしまいました。これは日本の時代劇もそうでしょうが、やはり志のある人たちが作り続けていかないと、ノウハウが廃れてしまう分野じゃないでしょうか。そういう意味でもまことに貴重な一作だと思います。


2017年2月04日(土)
引く手あまた、今を時めく俳優の一人であるベネディクト・カンバーバッチですが、ついにマーベル・シネマティック・ユニバースの世界に登場! 同シリーズの通算14作目「ドクター・ストレンジ」Doctor Strangeで主演、ということで、カンバーバッチに以前から注目している我が家としましては、当然、見に行った次第です。
 考えると、テレビシリーズSHERLOCK(シャーロック)のシャーロック・ホームズとか、カーン(スター・トレック)、アラン・チューリング(エニグマ・ゲーム)など、天才的知性を持ち、高慢ちきで鼻持ちならないけれど、孤高の人で、不器用で、カリスマ性の高い魅力的な男、というのをやることが多かったカンバーバッチ。「ホビット」シリーズでの悪龍スマウグ役もまた、そういうキャラの一典型だったといえましょう。してみれば、天才的外科医から稀代の魔術師に転向したドクター・ストレンジというのは、まさにこの人のための役柄、という感じがあります。実際、もしカンバーバッチ以外の人がやったら、本当に単なるイヤなヤツ、身の程知らず、井の中の蛙・・・というキャラになりかねなかったと思われます。多忙を極めるカンバーバッチに三顧の礼を尽くし、テレビシリーズ続行中のSHERLOCKの制作サイドにも協力してもらい、なんとかスケジュールを調整して出てもらった、という関係者の努力が実った作品といえるのでしょうね。
 
 天才神経外科医の名をほしいままにしているスティーヴン・ストレンジ(カンバーバッチ)。今日もER(救急救命室)で、元恋人で同僚のクリスティーン・パーマー医師(レイチェル・マクアダムス)の懇願を受け入れ、主治医のウェスト医師(マイケル・スタールバーグ)の意向を無視して難しい手術を強行、見事に成功させます。
 地位、名誉、金銭をすべて手に入れ、成功街道をひた走り、いささか天狗になっているストレンジですが、あるパーティーに向かう途中、自慢のスポーツカーの運転を誤り崖から転落、九死に一生を得る重傷を負い、人生は暗転します。
 病院でウェストが救急処置をしましたが、彼の手に負えるものではなく、ストレンジは外科医として致命的な、両手の自由を失います。ストレンジは、あらゆる方法を駆使して手を治そうと試みますが、ついに望みを絶たれ、すべての財産も使い果たしてしまいます。ずっと見守ってくれたクリスティーンに八つ当たりして彼女も離れていってしまう始末。そんな中、ストレンジは担当の療法士から、脊髄を損傷しながら奇跡的に全快した人物がいると聞かされショックを受けます。その男、バングボーン(ベンジャミン・ブラット)はストレンジに、ネパールの「カマー・タージ」という秘密の僧院に行けば、回復の見込みがあると告げます。
 オカルト的な話には本来、懐疑的な唯物論者のストレンジですが、今はそんなことをいっている余裕はなく、ワラにもすがる気持ちでネパールに。そこで悪者に襲われて危ないところ、謎めいた男モルド(キウェテル・イジョフォー)が助けてくれ、カマー・タージに案内してくれます。そこで出会ったのは、何千年の時を生きていると思われるケルト人女性の大魔術師、エンシェント・ワン(ティルダ・スウィントン)でした。彼女は、傲慢で物質に偏重した考え方に満ち満ちているストレンジに、宇宙と生命の壮大な秘密を見せつけ、並列する多元宇宙の中に存在するこの物質世界はほんの一部でしかない、という真理を告げます。初めは受け入れられなかったストレンジですが、幽体(アストラル体)となって身体から離脱する経験を経て、いったん、その正しさを理解すると、エンシェント・ワンを師として仰ぎ、元より優秀な人物であるがゆえに、次々に奥義を学んでいきます。あまりに先走ったことを学ぼうとするあまり、書庫番のウォン(ベネディクト・ウォン)にたしなめられたりもしますが、短い期間にストレンジは多くのことを身に着け、エンシェント・ワンも彼の才能を認めるようになります。
 ところで、エンシェント・ワンには、かつて愛弟子であるカエシリウス(マッツ・ミケルセン)という男がいました。カエシリウスはその後、カマー・タージを離れ、暗黒の宇宙の意志であるドゥマムゥを信奉するように。彼はウォンの前任の書庫番を殺害してエンシェント・ワンの蔵書を盗み出し、禁断の儀式を行ってドゥマムゥをこの世界に導き入れようと画策していました。
 ロンドンのエンシェント・ワンの拠点を襲ったカエシリウスの一味を、たまたまそこに居合わせたストレンジがたった一人で迎え撃つ羽目になりますが、戦闘の経験のない彼はいきなり大ピンチ。カエシリウスの部下ルシアン(スコット・アトキンス)の攻撃で瀕死の重傷を負ったストレンジは、魔術を使ってアメリカの病院に飛び、クリスティーンに助けを求めます。しかしそこにアストラル体(幽体)となったルシアンが現れ、今度こそ絶体絶命に。ドクター・ストレンジは危機を脱し、世界がドゥマムゥの手に落ちるのを阻止出来るのでしょうか・・・。

 というような展開で、もう現在の映像技術の限界、というような、ほかで見たこともないような映像が次々に飛び出します。スピリチュアル世界そのものを扱った内容であり、また宇宙と生命の神秘そのものを扱っているテーマでもあり、ちゃちな視覚効果では子供だまし、という感じになりかねません。マーベルがこの題材を14作目まで温めていたのも、技術的な進歩がやっと、やりたいことに追いついた、ということだと思います。
 これを見せられると、ああ、よくいう「幽体離脱」という経験は、本当にきっとこうなのだろうな、というものすごい迫真性があります。ずいぶんそのへんのスピリチュアル的知見も研究して作られた映像なのだろうと感心します。
 原作コミックでは老人の男性であるエンシェント・ワンを大胆に女性にするとか、本来、悪役であるモルドを、少なくとも最初はストレンジの最も頼れる兄貴分として設定するとか、この映画ならではの変更点がいろいろありますが、これも計算しつくされてのことと思われ、非常によく出来ているな、と思いました。
 監督はスコット・デリクソン。キアヌ・リーヴス主演のSF「地球が静止する日」がいちばんよく知られている作品でしょうが、その他の作品ではホラーやオカルト系のものが多く、ジェリー・ブラッカイマー製作の実録ホラー「NY心霊捜査官」を監督して話題を呼ぶなど、実は心霊系が得意な監督です。そんなデリクソン監督が本作に大抜擢されたのも理解できます。実際、単なるヒーロー・アクションもの、という枠では捉えられないのがこのドクター・ストレンジという作品だと思われます。
 音楽も凝っていて、全体の担当はマイケル・ジアッチーノ。スター・ウォーズの新作「ローグ・ワン」もこの人のスコアでした。ちなみにこの人、テレビゲーム「メダル・オブ・オナー」で有名になってから映画音楽の世界に参入し、「カールじいさんの空飛ぶ家」でアカデミー賞を受賞、その後も「ミッション・インポッシブル」シリーズを手掛けるなど、今、最も注目される作曲家です。また挿入曲も興味深く、手術のシーンでかかる曲はアース・ウィンド&ファイアーの「シャイニング・スター」、車の運転中に流れるのがピンク・フロイドの「星空のドライヴ」・・・ストレンジは70年代ぐらいの楽曲が好きなわけでしょうね。
 カンバーバッチの説得力ある演技はもちろん、アカデミー女優のティルダ・スゥイントンや、「ローグ・ワン」でも演技が絶賛されたマッツ・ミケルセンといった実力派が固めて、決して子供向けの浅いコミック作品という感じにしていません。非常に深遠な哲学的な作品に仕上がっております。といって、娯楽作品としても極上で、アベンジャーズ・シリーズとの絡みもしっかり配置されており(ワンシーンですが、「マイティ・ソー」のクリス・ヘムズワースも登場します)まことに良くできた作品でした。
 そのヘムズワースの登場シーンでは、ソーの弟、ロキ(トム・ヒドルストン)の名前にわざわざ言及。次作ではこのへんと絡むのでしょうか、楽しみですね。
 そうそう。マーベルの総帥で、全ての映画にワンシーンは出ているスタン・リー氏(なんと94歳)が本作にも登場! ロンドンのバスの座席で、オルダス・ハクスリーの『知覚の扉』The doors of perceptionという本を読んでいる老人、という役柄でカメオ出演していますよ。この本というのは、『すばらしい新世界』などで知られる作家ハクスリーが、自身のメスカリン(幻覚剤)体験を描いたもので、人間の知覚がごく制限されたものしか認識していない、ということをテーマにした内容です。同書の題名が、ロックバンド「ドアーズ」の名前の由来であるのも有名な逸話です。


2017年1月27日(金)
 マーティン・スコセッシ監督の新作「沈黙」Silenceを見ました。「タクシードライバー」「ギャング・オブ・ニューヨーク」「アビエイター」などで知られる巨匠が、原作小説を読んで感動し、実に構想開始から28年もかけて映画化した、という作品。原作は言わずと知れた日本の文豪、遠藤周作先生です。原作小説は1966年に発表、ということで半世紀前のこと。そして、遠藤氏は1996年に亡くなっていますが、スコセッシ監督は91年、遠藤氏に直に会って、映画化の許可を貰ったそうです。遠藤氏の原作は、17世紀初めの実在の宣教師をモデルとして、小説的な脚色を加えたものですが、大筋の話は史実が下敷きになっています。
 スコセッシ監督の長年の執念の実現、というもので、これは1630年代末の日本を舞台にした時代劇でもあるわけですが、日本の観客から見ても全く違和感がない、といってよいのではないでしょうか。登場する江戸時代の農民や漁民、武士たち。その身に付けている衣装や刀、昔の日本で見られた小さな馬に、馬具。完璧な時代考証に驚かされます。
 私は、中学生時代に原作小説を読んで、非常に感銘を覚えました。確か、学校に提出する読書感想文のテーマにしたのじゃなかったかと思います。キリスト教という宗教の問題だけでなく、日本という国の特殊性、異文化の理解と衝突とか、人の生き方といったところまで、その年齢なりに考えさせられた作品でした。それで、私個人の当時の印象として、途中で主人公の書簡の形から、通常の小説体、さらにオランダ商人の書簡による伝聞・・・などと視点が変わるところがあり、けっこう読んでみると分かりにくいんですよね(それは、この映画化でもそのまま踏襲されています)。また、主人公が日本に来てから各地を転々とした後、捕えられた後もあちこちに連れ出されたりして、中編なのに登場する人もどんどん入れ替わるし、シーンもかなり展開する。よって、決して難解ではないのですが、意外に文章では理解しにくい印象もあったのです。しかし、今回の映画化によって、非常に分かりやすくなったと感じました。昔、読んだシーンが頭の中でつながった気がしました。これは、そういう意味で映画化に向いた素材だったのですね。
 特に私の中では、この作品のキーマンともいえる実在の人物、井上筑後守政重(1585〜1661)というのがなかなか視覚イメージしにくかったのですが、イッセー尾形さんが起用される、と聞いた時に「なるほど」と膝を打ちました。何を考えているのか分からない、底知れぬ狡猾さと、一見した人当たりの良さと、そして驚くほど深いキリスト教と異文化への理解・・・この謎めいた人物を視覚化するなら、確かにイッセーさんしかない、と思います。それが見事にはまっています。その他のキャストも素晴らしいです。名優リーアム・ニーソン、「スパイダーマン」で名を上げたアンドリュー・ガーフィールド、「スターウォーズ」新作で世界的な知名度を得たアダム・ドライヴァーといった若手、それに浅野忠信、窪塚洋介ら日本人俳優陣の頑張りも素晴らしいです。
 
 江戸時代初め、キリシタン弾圧が強化された徳川時代の日本。
15年にわたって、日本での布教活動の指導者だったフェレイラ神父(ニーソン)が捕えられ、キリスト教を棄てた、というニュースがイエズス会に衝撃をもたらします。1640年、マカオのイエズス会指導者、ヴァリニャーノ神父(キアラン・ハインズ)は、日本に潜入してフェレイラを救出したい、と訴えるフェレイラの弟子、ロドリゴ神父(ガーフィールド)とガルペ神父(ドライヴァー)の申し出を、あまりにも危険だとして止めますが、2人の熱意を受けて許可します。
マカオにいた日本人、キチジロー(窪塚)を案内人として中国船で長崎に潜入した2人は、隠れキリシタンの住むトモギ村の村長イチゾウ(笈田ヨシ)、モキチ(塚本晋也)らにかくまわれ、密かに布教活動を再開。しかし、身を潜めることしかできず、フェレイラの行方も皆目、わからない状況に2人の神父は焦り始めます。
彼らの動きはついに幕府の知るところとなり、キリシタン弾圧の責任者である長崎奉行・井上筑後守(尾形)が乗り込んできます。彼はイチゾウ、モキチ、キチジローらを捕えますが、キチジローはあっさりと棄教を認めて逃亡。イチゾウとモキチはロドリゴやガルペの見守る中、殉教してしまいます。
危険が迫る中、ガルペとも分かれて五島の山中を逃げ惑うロドリゴを、またキチジローが助けます。しかし、キチジローは、イエスを裏切ったユダのように「銀300枚」でロドリゴを裏切り、ロドリゴは役人の手に捕らわれてしまいます。
奉行所に連行されたロドリゴは、日本人信徒モニカ(小松菜奈)、ジュアン(加瀬亮)らと触れ合う中で、日本にもキリスト教がしっかりと根付いていると確信するのですが、それをあざ笑うかのように、「日本にはキリスト教は根付かない」とロドリゴに棄教を迫る通辞(浅野)、井上筑後守があの手、この手でロドリゴを揺さぶります。それは非常に狡猾で、通常の暴力的な拷問以上にロドリゴを心理的に追い詰めていきます。また、どこまでもつきまとってきて、信用すると裏切る、を繰り返すキチジローの姿も、ロドリゴに信教に対する疑問を抱かせます。そんな中、ロドリゴはガルペと、そして懐かしい師匠のフェレイラと悲しい再会をすることになります。
「神はなぜ沈黙しておられるのか? こんなにも私たちが苦しんでいるのに」根源的な疑問を抱き始めたロドリゴの運命やいかに・・・。

ということで、原作小説の流れを損なうことなく映画化されており、とにかく日本人としても安心して見ていられるのがすごい。ハリウッド映画にありがちな、日本語のセリフが変、などということは一切ありません。まあ、日本語のセリフ以外は、本来はポルトガル語であるべきところをすべて英語に置き換えているので、そこが興ざめではあります。いくらなんでもハリウッドの枠では、仕方ないんでしょうけどね。
本作を見ていて、おそらく本人たちもかつてはキリシタンであったと思われる通辞と、井上の言うところが妙に納得できるのが面白い。日本人としてみて、残酷な弾圧者ではありながら、その論理が非常に納得できるものに思われるのが興味深いです。要するに、お前たちの持ち込んだ宗教は、そもそも侵略の手先としての布教じゃないのか、そして、お前たちが押し付けてきたものは、あくまでもお前たちの宗教であり文化であって、現にお前らは日本と日本人のことを何にも理解していないではないか。お前らは日本を見下していて、日本語すら全く覚えようとしないじゃないか。それは傲慢じゃないか・・・という彼らの問いかけが、非常に日本人として納得できるんですね。近年でこそ、日本語堪能な外国の方も珍しくないですが、ほんの20年ほど前までは、自分は日本語が全くできないのに、日本にやって来て英語を教えてやる、という上から目線の勘違いな外国人がごく普通にはびこっていましたね。本作を見て、このへんは、外国人の観客、特にキリスト教徒の人はどう思うのでしょうか。
今も世界中で、宗教の名の下に殺し合いが続き、テロが頻発しています。人種問題やグローバリズムの限界というのも、アメリカでトランプ政権が誕生してから、ますます深刻化してきています。こういう時代にこそ、この映画は必要なのだ、というスコセッシ監督の思いが伝わってきます。30年近く、この映画化のために悩みぬき、考え抜いてきたものが、ここにきて一度に結実してきたのだろうと思われます。
日本の誇る文豪の作品が、深い理解を得てハリウッド映画化された、というのはそれだけで記念碑的な快挙ですが、とにかく遠藤周作とマーティン・スコセッシという2人の巨匠が投げかけている普遍的なテーマが圧倒的な迫力です。特に日本人こそ深く味わえる作品ですので、多くの方に見てもらいたいと思いました。


2017年1月26日(木)
 おや、いきなり「内閣総理大臣 安倍晋三、明恵」夫妻とか、「甘利明」前大臣の花が飾られている・・・。何事かと思われるでしょうが、これは昨日、六本木のホテルで開催されたオペラ「続・蝶々夫人 桟橋の悲劇」の制作発表会の入り口風景です。
 有名なプッチーニのオペラ「蝶々夫人」の続編を、鈴木弘之氏(写真家で、デザイナーのコシノジュンコ先生の御夫君かつ、式会社JUNKO KOSHINNO代表)が書き下ろし、それを作家・夢枕獏先生が脚本化、そして作曲家の松下功先生(東京芸大副学長)が作曲、という豪華なコラボが進行中で、この日はさわりの楽曲を披露し、台本を公開した次第です。
 集まった来客も豪華で、宮田文化庁長官(東京芸大学長)、田村観光庁長官をはじめ、神田うのさん、ドン小西さん、オスマン・サンコンさんといった方々のお姿を見かけました。
 ということで、日本オリジナルオペラを製作しようという壮大な試み。これからどうなっていくのでしょうか? 楽しみであります。

2017年1月20日(金)
 いよいよトランプ大統領が就任するわけですね。そもそも就任式で何事もなければよいのですが。まあ、こういう人が本当に表舞台に登場するのはサプライズでしたよね。
 ところで、先日、東京・市ヶ谷にありますホテル「グランドヒル市ヶ谷」にて、食事を致しましたところ、玲子が誕生日だったもので、デザートにハッピー・バースデイのチョコプレートを添えてくださいました。嬉しいサプライズで、ありがとうございました!

2017年1月16日(月)
 我が家の玄関先の洋ランが花盛りとなっております。いつも寒い時期になると、奇麗に咲いてくれます。道行く人が「見事ですね」と声を掛けてくれることもあります。
 とりあえず、世間も我が家も、1月の半ばまできて、まずまず平穏、といえるでしょうか。しかしこの20日にはアメリカですごい大統領も登場します。どうなりますかね。考えても予測がつかないですね。
 まあ、私はとりあえず奇麗な花でも愛でております・・・。

2017年1月06日(金)
 多くの職場で仕事が始まったと思います。いかがお過ごしでしょうか。
 ところで、ダイエーでは、現在「ぬいぐるみを手に入れよう!」キャンペーンを実施していますが、いよいよ今月15日まで。最後のチャンスと成ってきました。今回は人気の高い「ピーターラビットのぬいぐるみ」がテーマです。
 ダイエーで買い物をして、1000円ごとにレジでシールを一枚もらえ、そのシールを集めて台紙に貼り、15枚集まるとメーカー希望小売価格3240円する、座高28センチのぬいぐるみが激安880円で買えます! 20枚集めると40センチ、5184円の物が1528円に、30枚集めますと、本来なら8100円もする55センチの巨大なぬいぐるみが、2639円でゲットできる、という仕組みです。28センチの物にはピーターラビットのほか、ピーターの従兄ベンジャミン・バニー、ピーターの妹フロプシーのものがあります。40センチの物はピーターとピーターの母親ミセスラビットの2種類、55センチの物はピーターのみです。つまり全部で3サイズ、6種類があるということです。
 私はこれまで、ベンジャミン、フロプシーと、ミセスラビット、ピーターラビットの55センチ、40センチを手に入れました。そしてとうとう、28センチのピーターも入手し、コンプリートしました。
 今回は特別出演として、やはり最近、手に入れたKALDIコーヒーのキャラクター「ヤギべえ」も写真撮影に参加しております。
 今回のキャンペーンは2017年1月8日までシール配布、同15日まで商品販売します。いよいよ本当に終盤ですので、興味がある方はお早めに。


2017年1月04日(水)
 この1月3日、2017年の「初映画」として「ヒトラーの忘れものLAND OF MINE」という作品を観賞いたしました。新年早々に見る映画としては甚だ陰惨な内容でしたが、しかし素晴らしい作品です。ぜひ多くの方に見ていただきたい一作です。銀座・和光のすぐそばの映画館「シネスイッチ」で公開しています。
 本作はデンマーク・ドイツ合作映画でして、デンマーク語の原題はUnder Sandet(砂の下)。ドイツ語の原題は Unter dem Sand – Das Versprechen der Freiheit(砂の下―自由への約束)というもの。そして、英語のタイトルLAND OF MINEは「地雷の地」というような意味合いです。このMINE(マイン、ドイツ語読みではミーネ)は地雷を意味する単語で、本作の隠れた主役です。第2次大戦中のドイツ軍の42年型対戦車地雷Tellermine 42 (T.Mi.42)や、対人地雷SミーネS-Mineが多数、登場します。
 邦題の「ヒトラーの忘れもの」というのは、なかなか秀逸だと思います。日本の場合も、捕虜となった日本兵が旧ソ連に強制労働させられたシベリア抑留がありましたが、本作で取り上げるのは、戦後になってデンマークの地雷除去を強制されたドイツの少年兵たちの物語です。よって、ヒトラーの忘れもの、とは、ドイツ敗北後もデンマークの海岸線に残されたドイツの地雷を表すと共に、祖国ドイツから見捨てられた少年兵たちを示すともいえます。
 大戦中、北欧進出を狙ったナチス・ドイツ軍は、足場として1940年にデンマークに進駐します。この際、デンマーク王国は何もできないまま、無抵抗でドイツ軍の軍門に下ってドイツの保護国となったため、王室が海外亡命することも、国軍が徹底抗戦することもありませんでした。つまり、デンマークから見るとナチス・ドイツは普通の意味で交戦国ともいえず、非常に微妙な立場となってしまいました。
 そのため、1945年にドイツが敗北し解放されたデンマークでは、この地域を管轄したイギリス軍の意向が大きくものを言いました。戦時中、連合軍の反攻を恐れたドイツ軍は、デンマークの海岸線に、実に200万個以上の地雷を敷設しました。これを除去するのには膨大な労働力と費用、時間を要しますが、英軍はデンマークに対し、地雷の除去を国内に残って武装解除されたドイツ兵たちにやらせることを提案します。戦争の捕虜を強制労働させることは国際協定違反ですが、この場合、デンマークから見てドイツ兵は戦時捕虜といえない、というのがその根拠でした。本来、後々になって面倒な国際問題になりかねない話ですが、デンマークとしては英国の「命令」を拒否する立場にはありませんでした。
 こうして、2000人を超えるドイツ兵が戦後も(建前としては自発的に)デンマークにとどまり、危険な地雷除去作業を強制されることとなりました。ドイツ軍のデンマーク占領部隊は後方任務だったために、二線級の兵力ばかりでした。ゆえに強制労働させられた兵士たちはプロとは言えず、ほとんどがヒトラー・ユーゲント(ヒトラー少年団)から徴兵され、急ごしらえで編成された国民擲弾兵Volksgrenadierに属する13〜18歳の少年兵たちだったと言います。
 デンマークとしては、自分たちの国の戦時中の不甲斐なさや、ドイツ軍への憎しみ、そして英国への卑屈な感情・・・さまざまなものが交じり合ったため、少年兵たちは歪んだ憎悪のはけ口の対象となり、1000人を超える者がここで悲惨な最期を遂げたそうです。

 1945年5月、ナチス・ドイツが降伏し、デンマークのドイツ兵たちも武装解除されて祖国に戻っていきます。その中に、ドイツ兵への憎しみを露わにするデンマーク軍のカール・ラスムスン軍曹(ローラン・ムラ)の姿がありました。
 デンマーク陸軍の工兵指揮官エペ大尉(ミケル・ボー・フルスゴー)は、ドイツの少年兵を集めて、地雷除去作業の訓練をさせます。慣れない仕事であり、すでに訓練中に地雷で爆死する者も出る中、エペは非情に少年たちをしごきます。
 そして、ある海岸に配属された11人の少年たちを監督することになったのが、エペの部下であるラスムスン軍曹でした。ラスムスンは、海岸に埋められた地雷をすべて除去したら、祖国に帰してやる、と少年たちに約束します。少年兵の中でも、将校だったヘルムート(ジョエル・バズマン)と人望のあるセバスチャン(ルイス・ホフマン)の間で対立が深まり、まともに食料も配給されない中、病気や飢え、疲労が重なり、やがて地雷で爆死する者もあらわれます。この過酷な状況を見て、初めはナチスに対する憎しみにかられ、彼らに辛く当たっていたラスムスンも、一人の人間として疑問を抱き始めます。祖国の戦争犯罪の償いをこの少年たちだけに一身に負わせる一方、自分たちはなんの責任も負わないデンマーク軍部の方針に、です。
 多くの犠牲を払いながら、ついにその海岸の地雷除去を完了した少年たちに、悲劇が待ち受けていました。さらに、少年たちへの「自由の約束」を踏みにじるような事態に・・・。少年たちは本当に祖国に帰ることができるのでしょうか。そして、最後にラスムスン軍曹がとった意外な行動は・・・。

 ということで、ひたすら陰惨なお話なのですが、デンマークの海岸線は抜けるように青い空と海、白い砂浜が広がっており、対照的なトーンです。本作は各映画賞で絶賛され、東京国際映画祭でも「地雷と少年兵」という仮タイトルで上映されました。アカデミー賞海外作品賞の候補作品にもなっています。
 衣装デザインも各賞を受賞するなど評価されていまして、少年兵たちの服装や、デンマーク軍兵士の軍装なども非常によくできています。
 まず、ラスムスン軍曹はデンマーク軍の兵士でありながら、英国軍空挺部隊の赤いベレー帽に、空挺部隊の徽章を付けた英国のバトルドレス(戦闘服)を着て、連合国を意味する星のマーク(本来、米軍のマークですが、この時期には西側連合軍一般を示す標章として使用されました)を付けたジープを乗り回しています。彼の立場は独特で、おそらく戦時中は英国に亡命して英軍兵士として戦い、エリート部隊である空挺部隊で活躍、祖国に英雄として帰ってきた、という設定です。だから、戦争中も何にもできずに傍観していたと思われる上官のエペ大尉やほかの軍人が、デンマーク軍の通常軍服を身に付けているのと際立った対照を見せています。ラスムスンと、他のデンマーク軍の将校たちとは微妙な力関係にあります。ラスムスンは軍人としては下士官に過ぎない一軍曹ですが、ドイツ軍との実戦を経験し、戦勝国の兵士として凱旋した人間であり、戦時中に何もしなかった軍部の上官たちに対しても物怖じしません。一方、エペ大尉たちの方も、英国帰りの軍曹に屈折した感情を抱いており、煙たく思っています。そのへんの人間関係も、この作品を深いものにしています。
 少年兵たちは当然、いろいろな部隊から集められた、という設定であり、同じ少年兵と言っても、国民擲弾兵の腕章を付け、立派な正規軍将校用の軍服に少尉の階級章を着けているヘルムートと、まだヒトラー・ユーゲントの黒いスカーフを首に巻いているセバスチャンの服装の対照性など、その人の立場を示す細かい設定がなされています。
 出演者たちは、長編映画初主演のムラをはじめ、ほとんどが無名の新人です。特に少年兵役にはドイツでキャスティングされ、全く演劇経験のない子供たちも含まれますが、そこに非常にリアリティーがあります。慣れない任務に駆り出される経験不足の少年兵、という役柄そのままだからです。
 ドイツの少年兵の悲惨を扱う映画では、過去にも名作「橋(ブリュッケ)」がありましたが、本作で扱うのは、戦後になってドイツとデンマークの友好関係の中で、両国のどちらの国民からもタブー視され、やがて完全に忘れ去られてしまった「不都合な真実」です。これを世に暴き出した問題作として、大きな反響を呼んだものです。
 なお、本作で名を上げたマーチン・サントフリート監督、次回作はなんと日本を舞台にするそうです。アカデミー俳優ジャレッド・レトや、浅野忠信を主演に据えて製作中で、今度は日本の戦後を背景にしたものになるとか。それはぜひ見てみたい作品ですね。


2017年1月01日(日)
 改めまして、あけましておめでとうございます。Happy new year!
今日は早朝のうちに近所の神社を巡りまして、初詣をしましたが、今年の元日は天気がいいですね。初日の出は午前7時20分ごろに見えました。
 今年がいい年でありますように。本年も宜しくお願い申し上げます。

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